2013年10月15日火曜日

所有物としての子供/他者としての子供 是枝裕和『そして父になる』


 このブログで何度も書いてきましたが、僕は是枝裕和作品のファンです。人が生きる事や、人の命というものを、その周囲を撫で、ゆっくり旋回していくように描き、そしてその中で登場人物がまるで脚本など無いかのように、まさに"生きて"いる様が動いてく。是枝裕和は、そんな映画をこれまでたくさん撮って来た監督です。
 前作『奇跡』(2011)では別居という形で離ればなれになってしまった家族をもう一度一緒にするためにとある「奇跡」にかけて奔走する子供達の様が虚飾の無い活き活きさで描かれていました。僕が深く愛して止まない『誰も知らない』(2004)や『歩いても 歩いても』(2008)でも子供達の様子が非常に儚くも美しく表現されていました。子供を描くのが(あまりに口幅ったいですが)大変に上手い監督でもあります。


 相変わらず【ネタバレ】を気にせず書き飛ばします。

 『そして父になる』は、自らの子供を取り違えられた二つの家族を巡る物語です。言うまでもなく劇中に子供が多く登場します。仮に"是枝監督の、子供の表現を見られる映画"という系譜を設定するならばその最新作であり、先走りますが同時に名作だと言えると思います。以下徐々に感想を書きますが、頭の中にもやもやと浮かんでいる感想はやはり物語そのものについてなので、先ずはその事ばかりを書くと思います。子供の描写にも触れられると良いのですが。

 この映画はカンヌ映画祭でも大変話題になり、また日本国内でもかなり大々的に宣伝されていたため(もう是枝監督が大スター扱い!笑 みんな『幻の光』や『空気人形』も見ようね)、劇場は大入りでした。客層を見てみると、僕の偏見かもしれませんが「どうやら泣ける映画らしい」「感動大作らしい」といった匂いを嗅ぎ付けてやってきた若い方々が大変多かったように思います。ポスターの前で(facebookにでもアップするんでしょう)記念写真とか撮っちゃったりして。これはそういった観客を揶揄している訳では全くありません、ただ是枝作品ファンの僕は解っていた事が一つだけありました、それは、彼らの期待は、良い意味乃至は悪い意味できっと裏切られるだろうと。

 渋谷TOHOシネマズでこの作品を見終わり、実は僕も心の片隅で期待していた(笑)、「泣ける感動大作なのでは」というミーハーな思いを素晴らしい形で裏切られた事に感服しながらも、半ば押し黙ってしまうような深い感動...と言えばいいのか、有り体に言えば考えさせられてしまった...というか、に身を委ねていました。

 
 この映画の骨子は先述しましたが、子供を取り違えられた二つの家族のドラマです。野々宮良多(福山雅治)と妻みどり(尾野真千子)の野々宮家と、斎木雄大(リリー・フランキー)と妻ゆかり(真木よう子)の斎木家のそれぞれの長男が病院で取り違えられていた事が発覚し、それぞれの子供をどうするか—そのまま暮らして行くのか、交換するのか、はたまた—というのがこの映画のストーリーです。野々宮家は夫が有名企業に務め都心のタワー型マンションに住むハイソサエティな核家族で、方や斎木家は郊外で小さな電器屋を営む親子三世代で暮らしている庶民的な家庭です。
 先ずこの二つの家庭の対比が面白かった。取り違え問題を眼前にして、野々宮家の特に良多は事件の真相/原因とそして"血の繋がり"を重要視し、斎木家の二人は病院側からどれだけ慰謝料がもらえるかとそして"子供と過ごした時間"を重要視しています。ここから既に微妙な複雑さを孕んでいると感じました。それぞれ重要視しているものが逆でも自然だと思うんです。無機的な都市に住んでるからこそ血の繋がりなど重要視せず慰謝料を気にし、郊外で気ままに暮らしているからこそ時間を重要視せず事件の真相を気にする、といったように。しかし映画の中ではそうではない。然るが故にそれぞれの家族に若干の"皮肉めいた"描写を感じ取れます。
 映画を見て行く中で、どうしてもこの二つの家族の「対比」、乃至は言い過ぎだとは思いますが「対立構造」に目がいきます。冷静に物事を考えようとする野々宮家と、楽観的とも取れる斎木家。しかし実際に両者の長男に、週末はお互いの家に宿泊させるという交換生活を少しずつ強いり始めてから、事態は変わります。野々宮家に来た(本来の息子である)琉晴(黄升炫)はその生活の窮屈さに苦痛を感じ、斎木家に来た(本来の息子である)慶多(二宮慶多)はその生活のゆるやかさに半ば嬉しそうに順応して行きます。

 ここで気になるのが、では、金銭的余裕もあり一等地に住み良い学校に進ませる事が出来る野々宮家より、金銭的余裕も無く郊外に住み教育も言ってしまえば杜撰な斎木家の方が、"子供が生育していく環境として良い"のか、という事です。しかしそこからより気になる、気にすべきは、『そして父になる』という映画がそういった環境を称揚しているのか、という事です。
 この映画は無論そんな単純なメッセージは放ちません。映画を見ていてこういった疑問を僕達観客が持ち得てしまう事自体に、ある種のメッセージを放っていると僕は感じました。

 この映画は基本的に、野々宮家の夫である良多の視点で描かれています。その中で全編に見えてくるのは、どうにも子供が"モノのような扱い"をされているのではないか、という事です。もっと言ってしまえば、"親の所有物"として扱われているようです。自分の子供なのだから自分と同じようなスキルを勝ち得、良い出世コースを進み、そしていつか自分自身が誇れるような息子に育てよう、といった親の思考が読み取れます。それは特に良多の描写に顕著です(良多が自分の父に、"サラブレッドを例えにして"、人間も血が大事だと説かれるシーンもあります)。
 ではそこで斎木家が全く逆かと言うと、どうもそういう風には描かれていないと感じました。斎木家も"子供と過ごした時間"を重要視しているとは言え、口をついて出るのは慰謝料の事ばかりだし、そもそも子供の交換について否を唱えるシーンもありません。彼らが持つ豪放磊落さ故に、子供の存在の危うさについても受け入れているように思えます。これが野々宮家よりも社会的乃至は倫理的に良い家庭だと(例え子供達が楽しそうに生育していたとしても)、必ずしも言えるでしょうか。勿論、賛否両論あると思います。だからこそ、微妙に複雑なのです。


 この映画は、良多が自分のデジタル一眼レフカメラのメモリーに残っている過去の写真を何気なく見ていて、今や斎木家で暮らしている慶多が、良多の寝姿や気付いていない瞬間を勝手に撮影していた痕跡を多く見つけます。そこで、これまで感情を大きく露にする事が無かった良多が噎び上げるようにして涙を流します。恐らく、彼はそこで始めて気付いたのです。良多が、否ここに登場する多くの大人達が、親から子への愛や想いでなく、"子から親への愛や想い"を全く忘れていた事に。
 慶多は親の言いつけを守り、親が願う道を逸れる事なく正しく成長していた。故に良多はいつしか慶多を"自分の所有物"、乃至は"新たなる自分"のように感じていたのだと思います。一方で慶多は、良多の子供として、それは言わば"親と他者としての息子"として、父良多を深く愛していた。それは良多の慶多への想いとはベクトルを向き合わせていながらも決して道を同じくしていないものでした。
 慶多は良多に「父でいてほしい」と想っている。それを理解した良多は、慶多ともう一度一緒に暮らすために、"良多の所有者"ではなく"良多の父となる"ために、斎木家に向かいます。

 映画のラストシーンで、その後両家がどうなったかは—交換を解消したのか、そのままなのか、はたまた他の選択肢を取ったのか—は描かれません。両家が仲睦まじく夕餉に向かうシーンでこの映画はエンドロールを迎えます。
 僕はそれで良いと思いました。最終的な決断が描かれたら、この映画は"両親が取るべき一つの回答例"を示す事になります。正しい回答は誰にも解りません。そんな事よりもこの映画が見せたかったのは、子供が持つ、"他者故の親への愛と想い"。だと僕は思いました。





 子供が親の所有物のように扱われているという問題について、僕も考えていました。親の趣味でド派手な服を着せられたり髪を染められたり奇抜な髪型にさせられたり、というのは今に始まった事ではありませんが、所謂キラキラネームというものに強くそれを感じます。漢字が持つ意味を考慮するといった事なく(無論、こういう子に育って欲しいという願いには親のエゴが含まれるのは自明ですが)、自分が好きな漫画のキャラクターの名前に当て字にして命名したり、子供が自分のオモチャに名付けるような訳の解らない言葉を名前にしたり、といった昨今一般的に溢れている事象に、親が子供を完全なる自分の所有物化(=将来的に他者として切り離す事を全く考えていない)しているのでは、という危機感を覚えていました。

 この映画の物語の発端である取り違えも、担当のナースによる、実は恣意的で私怨に塗れた故意な交換であった事が描かれています。これも子供を人間ではなくモノとして扱っている事の象徴になっていると思います。
 親にとって子は、血の繋がりがあり、そして長く共にする時間がある。しかし子供は最終的は他者である。それは悲しい事では決して無く、然るが故に発生する愛と想いがある。『そして父になる』というこの映画は、その事を描いているように感じました。




 当初危惧していた通り子供達の描かれ方について全然触れられなかったので(笑)、追記という形を取って、しかもちょっとした事しか書けないと思いますが、またこの記事内で更新します。子供をも他者としてしっかり描く。それが是枝作品の子供の描き方の魅力ですね。












2013年10月6日日曜日

撹乱と爆笑とグイドの夢? 園子温『地獄でなぜ悪い』


 現在上映中の作品ですが【ネタバレ】を気にせず感想を書き散らかします。途中で文体が変わるのは性格の問題です。


 "映画を撮影中の映画"が好きだ。映画の撮影が主題になっている映画。僕が見れている作品数は申し訳ない程に少ないが、どれも好きで仕方が無い。フェリーニ『8 1/2』、トリュフォー『アメリカの夜』、是枝裕和『ワンダフルライフ』、そして記憶に新しい、以前ここで激賞した吉田大八『桐島、部活やめるってよ』もそうだった。北野武『監督・ばんざい!』だって、そのジャンルに位置するというだけで好きと言いたくなる。
 なぜ"映画を撮影中の映画"が好きかを考えてみると、メイキングという行為自体の美しさと、作家の映画への愛情がリアルに垣間見えるからが恐らく最たる理由であり、そして特に近年の作品には於いては"映画を撮影している中で映画を撮影している"という入れ子構造に直面するために必然的に"映画"乃至は"撮影"についてのメタな視線が導入され、そのメタ性を作家がどう作品の中で扱うか、が見れるからだと思う。

 『地獄でなぜ悪い』も映画の撮影を主題にした映画だった。簡単にストーリーを書く。
 一人娘を将来女優にするために育てていたヤクザの組長とその妻だったが、幼少期の娘が単独でCM出演の機会を得ている時にとある陰惨な事件のため妻が投獄、そのため娘は女優業の道を断たれる。その後十年程経って、娘が順調に女優の職を営んでいると思っている(というか思わされている)十日後に出所する妻のために、夫である組長が、娘が主演の映画を自身でデッチ上げようとする。そこに無関係な善良な青年や、十代の頃から映画の事しか考えていないが全く成功する兆しの無いちょっと頭がアレな男とその仲間達が巻き込まれ、組長はなんと現在抗争している組への殴り込みを撮影して映画に仕立て上げようと提案する。


 
 
 感想文に入ります。見てない人にはなんの事やらの文章です。
 映画が終わりエンドロールに入った瞬間、池袋ヒューマックスシネマズの椅子に埋もれたままガッツポーズをしました。最ッ高に面白かった!もう、めちゃくちゃです。めちゃくちゃに面白いし、物語自体もめちゃくちゃです。味の濃い、しかも別種の味の映像が大量に連結されていて、筋はしっかり通っていながらも目紛しいほどです。

 この映画の好きな点を大雑把に三つ挙げると、一つ目はジャンル映画のコラージュである事、二つ目はカメラの介在による、"しかもフィクション内での"フィクションとノンフィクションの撹乱がある事、三つ目はとにかく面白くてめちゃくちゃ笑った事です。三つ目については見て頂くほか無いので、一つ目と二つ目についてなんとか書けたらと思います。(正直めちゃくちゃ笑った事がこの作品の最も褒めたい点なのですが 笑)

 一つ目、この映画がジャンル映画のコラージュである事です。先ず一番大きい枠として
、この映画はコメディ映画であり、そして同時にヤクザ映画です(タイトルバックと共に『仁義無き闘い』のテーマが流れる事からもそう思って良いと思います)。その次に大きい枠として、"映画を撮影中の映画"です。そしてこの枠の中乃至ははみ出た所に、アクション映画(佐々木のブルース・リーぶり、ファックボンバーズの喧嘩のジャッキー・チェンぽさ、日本刀による殺陣)、少年青春映画(ファックボンバーズの少年時代)、青年/中年青春映画(ファックボンバーズとヤクザの映画撮影)、映画館/映画愛映画(ファックボンバーズと映画技師。『ニュー・シネマ・パラダイス』みたいな。見てないけど)、トラブル巻き込まれ系映画(ミツコに連れ去られる公次)、逃避行ロードムービー/ラブストーリー(ミツコと公次)、クサいメロドラマ(平田と一夜限りの女)、B級スプラッター映画(ヤクザの抗争、殴り込み)、と枚挙に暇がありません。これは僕が勝手に細部をこじつけてる訳ではなく、鑑賞していてハッキリ、シーンごとでジャンルを感じます。
 これには、冒頭に書いた僕が"映画を撮影中の映画"を好きな理由として挙げた、"作家の映画への愛情"を感じます。こんな映画も好き、あんな映画も好きという想いが大雑把な"ジャンル"の編み目に濾されて、破綻しないギリギリのところでめちゃくちゃに詰め込まれているように感じました。これが大変心地良い。目紛しい程に色々なジャンルを見せつけられ、段々感覚が麻痺してきて自分が何を観ているのか解らなくなり、次第に色々な映画と一体化したような陶酔感すら味わいそうになります。

 二つ目は、カメラの介在という問題。これは前に僕が書いた山下敦弘『マイ・バック・ページ』の項、の文中にリンクしてるdemioさんの記事が、ちょっと進んだ物ですが資料になると思います(丸投げ)。
 カメラという物は力を持っています。このカメラという語は演出や撮影者という語に置き換えても構いません。どういう力かと言えば、無限に広がっている筈のこの世界の風景を狭小な四角い空間に切り取ってしまう力。そして、その切り取った風景を"映像作品化"してしまう力です。(demioさんはそこから遡行的に寧ろ現実感が生じてしまう事を指摘していますがここでは一体置いておいて)この映画では、このカメラの力、"映像作品化"してしまう力≒フィクション化してしまう力が一先ず注目されています。園子温はそのメタ性を活用しますが、しかし一筋縄ではいかないのが、"カメラが介在する事により全ては虚構化する"という初歩的な点のみを強調したわけではないという事です。
 映画の映像を我々は"現実世界でのフィクション"と知りながら、映画の中で起こった事は"映画の世界の中でのノンフィクション"と捉えます。
 (映画の中で現実に現れた)瀕死の重体を負ったヤクザが町を歩き、それをファックボンバーズのカメラが追う事で途端にそれは映画(フィクション)になってしまう。(映画の中で半ば用意された)目を見張るようなアクションシーンや甘くクサいドラマティックなラブシーンがあってもカメラが入らない事によりそれは映画にならない(ノンンフィクション)。そして最後の殴り込みのシーン。現実の殴り込みをカメラで撮っているからフィクション化してしまう、という単純な事ではなく、平田の監督/演出によって殺し合いそのものが半ば用意された演劇と化し、しかし実際に戦いが起こり人が大量に死に、そしてそれをカメラが撮り続けている。こういった事が、トートロジーになりますが"そもそも映画である映画"(=フィクションであるフィクション)の中でごちゃごちゃになっています。映画の中で一体何が映画で何が映画じゃないのか混乱してしまいます。カメラの介在の抜き差しだけで大いに撹乱されているようです。35mmを担ぐファックボンバーズのカメラマン二人が機関銃を手にして敵味方関係無く銃殺していくシーンも、カメラが持つ力を象徴しています。

 そして結末が面白かった。血みどろの抗争から、フィルムと録音テープだけを持ち去った重傷の平田が歓喜しながら夜の路上を疾駆し、そして唐突に「カット!」の声が響きます。その声は登場人物の誰の声でもない、『地獄でなぜ悪い』という映画の撮影者によるラストシーンの「カット!」なんです。平田は俳優・長谷川博己に戻りフレームの外に倒れ込み、物陰に隠れていた撮影スタッフの影がちらほらと現れ(カメラの前を横切る者も!)、そして映画はエンドロールに入ります。これが最後の大打撃。
 繰り返しになりますが、映画というものは、我々の現実とは切り離されているところのノンフィクションとして一先ず受け止めるのが普通の見方だと僕は思っています。しかしこの映画は、フィクション/ノンフィクションがその映画の中で撹乱され、そして最後の「カット!」により、その撹乱を内包していた、我々が推移を見守っていたこの映画自体が"カメラにより撮影されたフィクション"だという事が強烈に提示されます。これまで観客が感じていた撹乱、混乱、感情移入を一笑に付すような打撃です。
 しかし、「カット!」後の映像を本物のノンフィクションと単純に見なすわけにはいきません。エンドロールはこれからです。映画は未だ終わっていないのですから。

 この"カメラの介在によるフィクション/ノンフィクション"の問題、メタ性は、初歩的な事ではあります。しかし、この映画の圧倒的なテンションの中で繰り広げられる怒濤のフィクション/ノンフィクションの撹乱にはカタルシスすら覚える感があります。主眼が問題提起する事ではなくて、むしろ"遊び"として撹乱してしまう事。そしてそれが(無論要因はそれだけではないけれど!)130分間劇場を笑いの渦に叩き込むようなエンターテイメント性に直結している事。それこそがこの『地獄でなぜ悪い』という映画の魅力なのではないかと僕は思いました。なんとか三つ目の理由に漕ぎ着ける事が出来ました。


 最後に、平田が疾駆しながら空想するシーンについて。平田は回収したフィルムと音声で名作映画を作り上げ、馴染みの劇場でそれを上映し大変な大入りになる様を頭に描きます。ここで面白いのが、抗争で死んだ人間までもがその場におり、共に観客のスタンディングオベーションに囲まれるのです。自分の夢想/希望が完遂し、愛したスタッフ、登場人物が全て列席する。この空想が、『8 1/2』で主人公グイドが死後に見る夢想にとても似ていると言うのは、過ぎた事でしょうか。園子温のインタビューによれば、平田には若い頃の"映画に燃えていた"自分を重ねたという言葉があります。
 主人公に自分を重ね、そして映画への想いを詰め込んだ映画。この『地獄でなぜ悪い』という作品を、園子温流の『8 1/2』と捉えるのも、大げさでダサい解釈かもしれませんが、面白いのかもしれません。




追記1:
 『地獄でなぜ悪い』というストレンジ且つ力強く開き直っているタイトルについて。この映画に於ける"地獄"は、僕は単純に抗争を始めとした血みどろのシーンだと取って良いかなと思っています。地獄と呼べる程にエグいシーンばかりなのに、それが爆笑を誘ってしまう。地獄の映像で笑わせてなぜ悪い、と言われているように感じます。
 思えば園子温映画はどれもこれも地獄ばかりでした。紀子の食卓も、愛のむきだしも、冷たい熱帯魚もヒミズも別種のものではありながら地獄ばかりでした。しかし、そのそれぞれの地獄から立ち上がるそれぞれの感動がありました。地獄で恐がらせてなぜ悪い、地獄で泣かせてなぜ悪い、地獄で感激させてなぜ悪い、そして、地獄で笑わせてなぜ悪い。
 こう考えるとまた『8 1/2』的なタイトル感を覚えてしまうのですが...(笑)


追記2:
 書きませんでしたが俳優陣のコメディアンぷりもクッソ最高でした。堤真一のヲタっぷり(あれは昨今のアイドルブームに園子温がしっかり目配せがある事を示していると思います。堤真一の素振りは完全に80年代のアイドルファンでしたが 笑)や、星野源がゲロをスプラッシュさせながら平田の願いの札を発見する所とか思わず手を立たいて笑いそうになりました。
この映画の中で一つだけ目立った悪い点を挙げれば、ヤクザが撮影機材を事務所に搬入しているシーンでの、二階堂ふみ演ずるミツコが暇でカチンコで遊ぶシーン。あれはダメ、あれは超可愛すぎる。一気にふみ様映画になりかねない。あれはオフショットにしろ!!!




以上です。



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前回の記事から半年以上ぶりの更新となりました。仕事を増やしてから全然映画を観る時間を失ってしまいました(以前は各地の名画座に足を運んでいたりしたのに!)今月はなんと、園子温、是枝裕和、松本人志の新作が同時にロードショーになっているので、これを機にまた映画漬けの日々を再開出来たらなと思います。