2012年9月6日木曜日

苦悩と超克 北野武『監督・ばんざい!』と『TAKESHIS'』、そして『アウトレイジ』


 映画好きな友人やバーの店員なんかと話をしていて、ふと気付くと「チャーリー・カウフマンの『脳内ニューヨーク』っていう、『8 1/2』に影響を受けたっていう作品が」とか、「『8 1/2』お好きなんですか?じゃあ、『NINE』は見ましたか?」とか、フェデリコ・フェリーニの『8 1/2』と関連性のある作品の話題になっている事があります。それほど『8 1/2』という作品が強い影響力を持っていて多くのフォロワーを生んでいるという事ですね。
 北野武の『監督・ばんざい!』もどうやらそうらしいと知り、先日TSUTAYAで借りて来て、観てみました。この作品が気になったのは菊地成孔の映画本での以下の一節からでした。

 
 「再び、映画というメディアは、『8 1/2』以来、「芸術的な映画」は「芸術家である監督」の内面を、壁画のように総て曝け出さねばならない。といった、ちょっとした無言の強制力を持ち続けている。そして、この強制力に最も簡単に屈してしまうのが、娯楽作専門の職業監督ではなく、「芸術家志向」の、しかも「芸術映画の失敗」に免疫のない「他業種監督」なのは言うまでもないだろう。北野武が『監督・ばんざい!』で「オイラなりの『8 1/2』を考えたんだよね」と言う時、この強制力は我が国での最高値を記録するのである。」(菊地成孔『ユングのサウンドトラック』)



 『8 1/2』のストーリーの軸は「思うように撮影が出来ていないにも関わらず、映画の製作が進んで行ってしまう映画監督の苦悩」です。とても美しく幻想的で夢のような作品ですが、突詰めると苦悩(とそれに伴う焦燥)の映画なんですね。
 果たして『監督・ばんざい!』も苦悩の映画でした。冒頭から中盤にかけてまで懇切丁寧に映画監督北野武の苦悩と迷走が描かれます。そこから映画は急激にシフトチェンジして躁状態に陥ったかの如くめちゃくちゃな物語が展開され、何が何だか解らないままに小惑星の衝突により地球が破滅して104分のこの短い作品は終わります。
 この作品を見ていて、北野監督が「『8 1/2』を考えた」というのは、映画監督の苦悩(『8 1/2』では「決定出来ない」苦悩が主でしたが、『監督・ばんざい!』では寧ろ「強力な決定権がある事」が苦悩として描かれています)を軸にして、自分自身の脳内にある様々なファクター(馬鹿馬鹿しいコメディ、国際情勢、政治、暴力、記憶etc)を曝け出して奔放に彩り、幻覚的な作品を作ろうとした。そんな事だったのではないかと感じられました。だから作品の構造としては『8 1/2』と同じなのでは無いかと思います。

 ですが構造が同じだから同じように映画として素晴らしいかと言えば、無論そんな事はありません。
 北野武の苦悩は、あまりに人間的で生々しい。観ていると「もう嫌だ、何もかも投げ出したい!」という声が、画面からではなくスクリーンの向こう側の北野武本人の口から聴こえてくるようです。苦悩の末にさんざん好き勝手やって、それを自覚しながら最終的に全てを破壊して「監督ばんざい!」とテロップが出てくるラストシーンなど、ほとんどヒステリーの大爆発のようです。
 『8 1/2』の苦悩はその苦悩自体が映画の中でとても美しく、そして遂には死後の悟りと祝祭にまで物語が及ぶ事によって全てが素晴らしい映像作品へと「昇華」しているように感じられます。しかし『監督・ばんざい!』の爆発は決して昇華などではなく、幼稚で単純な「破壊」であり、諦めであり打ち捨てにしか感じられませんでした。要するに、観終わって「北野武も世界のキタノとか言われて、色々苦しいんだなあ」みたいな、まるで親みたいな目線の感想が出て来てしまうのです。




 実はこの感想は『TAKESHIS'』を観た時にも感じたものでした。この作品も軸には「苦悩」があって、その苦悩は人間・北野武と、スター・北野武という二つの人格が乖離して統合出来なくなってしまう。というもので、これもまた北野映画的な独特な世界観に彩られてはいるのですがその苦悩が生々しく肉声的で、「ああ、北野武もやっぱりこういう事で悩むんだなあ、人間だなあ」と率直にそればっかり感じてしまいました。だから映画として面白かったかと訊かれれば頷けないし、今思い返してもしっかりと内容を思い返せません。
 第30回モスクワ映画祭でのインタビューで北野監督は、『TAKESHIS'』と『監督・ばんざい!』、この二つの作品を「自分が一番沈んだ最低の時に制作した映画だ」と語ったらしいですが、本当にそうなんだろうなぁと少しだけ微笑んでしまいます。




 しかしこのあまりに肉声的な苦悩は、『アウトレイジ』で思い切り解消されているように感じました。上述した二作はうじうじと過去の作品に言及したり苦悩を解りやすく且つ奇怪に描き出す事に執心しており「ぐだぐだで中途半端なメタ感」がありましたが、『アウトレイジ』ではキッパリと高次のメタ領域に踏み込んでいると感じました。

 とあるラジオ番組で、聴視者からおすぎの「『アウトレイジ』批判」に対する苦言が投稿として寄せられていました。そのおすぎの批判はどういった物だったかというと、「豪華な俳優陣を集めて幼稚なヤクザごっこをしているようにしか見えない」といった内容でした。おすぎはこれを「批判」として言ったわけですが、実はこの"「ごっこ」という指摘自体"は僕は正しいと思っています。『アウトレイジ』は確かに「豪華な俳優陣を集めて幼稚なヤクザごっこをしている作品」です。だから良い。だからこそ北野映画としてメタ作品になっているのです(後述します)。おすぎがダメだったのはこれを即座に批判的に捉えた所で、北野武はこれまでも良質なギャング映画を撮っており(『ソナチネ』とか素晴らしいですよね)、それらは決して「ごっこ」の作品ではなく、ギャングの世界を通してしっかりと生と死の美しさが描かれていたんですね。では"何故今、北野武は「ごっこ」めいたギャング映画を撮ったのか?"というズブの素人でも容易に思い当たる疑問を、おすぎは獲得する事が出来なかった。これがおすぎの『アウトレイジ』批判に於ける最大の失敗であり、映画評論家としての信用はやはり皆無なのだと言う事を改めて教えてくれる失態であると思います。

 『アウトレイジ』に登場するヤクザ達はどれも皆非常に子供っぽい事が見て取れます。それにセリフも「バカヤロー」だの「コノヤロー」だのばかりで非常に稚拙です。象徴的な会話として、大友が池本を殺そうとするシーンでの「舌出せ、何枚も持ってんだろ」「舌は一枚しか無えよ」という物が挙げられると思います。二枚舌、三枚舌という慣用句を知らないという、登場人物の子供っぽさを強調するシーンです。
 これはヤクザ世界というものを、今までのように生と死の視点からポエティックに描き出すのではなく、「戯画的に再認識して描き直している」と考えられます。ギャングというのは殴ったり蹴ったり怒鳴り散らしたり、野蛮で合理性に欠けた(これも石原の駐日大使に対する「俺たちがヤクザだって事、忘れてねえよな?」というセリフに象徴されます)子供のような存在なのではないか?そういった視点でこの映画は撮られていると思います。だから「ごっこ」に見えるし、豪華な俳優陣を用意する事により「粉飾」の匂いさえ漂わせています。

 北野武にとってやはりギャング/暴力映画というのは非常に得意なジャンルであり、尚かつ名作が幾つも残っている物です。それを戯画的、皮肉ったような感じで描き直す(それも懐古的でも自省的でもなく潔く完璧にやっている)事自体が、キッパリと高次のメタ領域へ移行した事を感じさせます。あと個人的に「バカヤロー」や「コノヤロー」の連発というのも重要なのでは無いかと思っていて(笑ってしまうくらいにバカヤローコノヤロー言ってるんですよねこの映画)、人が北野武というかコメディアンとしてのビートたけしのモノマネをする時に、首をくいくい曲げながら「ダンカンこのやろう」とか「ダンカンばかやろう」と言う事が多いですよね。なので世間的に「バカヤロー/コノヤロー」といった言葉がビートたけしの象徴的なセリフとして認識されていると思います(それも北野武本人も解っているでしょう)。そんなセリフを映画の中で過剰な程に使う事。これも北野武が自分自身(コメディアン・ビートたけしを含めた)を再認識し、半ば自嘲的に捉え直している事を証明しているのでは無いかと思います。しかもこれが『アウトレイジ』という映画の中で行なわれるから、自身の再認識として機能すると同時にヤクザの「子供っぽさ」を助長する演出にもなっているのだから、見事と言う他ありません。

 『アウトレイジ』によって北野武は、抱えていた苦悩を総括して超克し、ひとつ高次の段階へ進む事が出来たのではないでしょうか。『監督・ばんざい!』や『TAKESHIS'』のように、『8 1/2』を意識して「苦悩/内面を吐露し、破壊を通じて昇華を目指す」のではなく、『アウトレイジ』によって自己を再認識し「強烈な暴力と共に笑い飛ばしてしまう」。これこそが北野武の苦悩を本当に解消出来る術だったのでしょう。

 だから僕は『アウトレイジ』が勿論ギャング映画としても大好きだし、北野作品としても愛して止みません。

 来月公開される続編『アウトレイジ ビヨンド』について、北野監督は「エンターテイメントとして撮った」と明言しています(ミヤネ屋で見た)。またベネチア国際映画祭で作品を観た現地の人は「とても洗練された映画。ただテーマが難解だった」「とても美しい、日本のアニメのような作品」「暴力ばかりの映画で不快だった」と感想を言ってました(これもミヤネ屋で見た)。
 果たして「ビヨンド」とは何を意味するのか(もしくは意味しないのか)、どんな面白い作品になっているか、大変楽しみですね。





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