2013年10月15日火曜日

所有物としての子供/他者としての子供 是枝裕和『そして父になる』


 このブログで何度も書いてきましたが、僕は是枝裕和作品のファンです。人が生きる事や、人の命というものを、その周囲を撫で、ゆっくり旋回していくように描き、そしてその中で登場人物がまるで脚本など無いかのように、まさに"生きて"いる様が動いてく。是枝裕和は、そんな映画をこれまでたくさん撮って来た監督です。
 前作『奇跡』(2011)では別居という形で離ればなれになってしまった家族をもう一度一緒にするためにとある「奇跡」にかけて奔走する子供達の様が虚飾の無い活き活きさで描かれていました。僕が深く愛して止まない『誰も知らない』(2004)や『歩いても 歩いても』(2008)でも子供達の様子が非常に儚くも美しく表現されていました。子供を描くのが(あまりに口幅ったいですが)大変に上手い監督でもあります。


 相変わらず【ネタバレ】を気にせず書き飛ばします。

 『そして父になる』は、自らの子供を取り違えられた二つの家族を巡る物語です。言うまでもなく劇中に子供が多く登場します。仮に"是枝監督の、子供の表現を見られる映画"という系譜を設定するならばその最新作であり、先走りますが同時に名作だと言えると思います。以下徐々に感想を書きますが、頭の中にもやもやと浮かんでいる感想はやはり物語そのものについてなので、先ずはその事ばかりを書くと思います。子供の描写にも触れられると良いのですが。

 この映画はカンヌ映画祭でも大変話題になり、また日本国内でもかなり大々的に宣伝されていたため(もう是枝監督が大スター扱い!笑 みんな『幻の光』や『空気人形』も見ようね)、劇場は大入りでした。客層を見てみると、僕の偏見かもしれませんが「どうやら泣ける映画らしい」「感動大作らしい」といった匂いを嗅ぎ付けてやってきた若い方々が大変多かったように思います。ポスターの前で(facebookにでもアップするんでしょう)記念写真とか撮っちゃったりして。これはそういった観客を揶揄している訳では全くありません、ただ是枝作品ファンの僕は解っていた事が一つだけありました、それは、彼らの期待は、良い意味乃至は悪い意味できっと裏切られるだろうと。

 渋谷TOHOシネマズでこの作品を見終わり、実は僕も心の片隅で期待していた(笑)、「泣ける感動大作なのでは」というミーハーな思いを素晴らしい形で裏切られた事に感服しながらも、半ば押し黙ってしまうような深い感動...と言えばいいのか、有り体に言えば考えさせられてしまった...というか、に身を委ねていました。

 
 この映画の骨子は先述しましたが、子供を取り違えられた二つの家族のドラマです。野々宮良多(福山雅治)と妻みどり(尾野真千子)の野々宮家と、斎木雄大(リリー・フランキー)と妻ゆかり(真木よう子)の斎木家のそれぞれの長男が病院で取り違えられていた事が発覚し、それぞれの子供をどうするか—そのまま暮らして行くのか、交換するのか、はたまた—というのがこの映画のストーリーです。野々宮家は夫が有名企業に務め都心のタワー型マンションに住むハイソサエティな核家族で、方や斎木家は郊外で小さな電器屋を営む親子三世代で暮らしている庶民的な家庭です。
 先ずこの二つの家庭の対比が面白かった。取り違え問題を眼前にして、野々宮家の特に良多は事件の真相/原因とそして"血の繋がり"を重要視し、斎木家の二人は病院側からどれだけ慰謝料がもらえるかとそして"子供と過ごした時間"を重要視しています。ここから既に微妙な複雑さを孕んでいると感じました。それぞれ重要視しているものが逆でも自然だと思うんです。無機的な都市に住んでるからこそ血の繋がりなど重要視せず慰謝料を気にし、郊外で気ままに暮らしているからこそ時間を重要視せず事件の真相を気にする、といったように。しかし映画の中ではそうではない。然るが故にそれぞれの家族に若干の"皮肉めいた"描写を感じ取れます。
 映画を見て行く中で、どうしてもこの二つの家族の「対比」、乃至は言い過ぎだとは思いますが「対立構造」に目がいきます。冷静に物事を考えようとする野々宮家と、楽観的とも取れる斎木家。しかし実際に両者の長男に、週末はお互いの家に宿泊させるという交換生活を少しずつ強いり始めてから、事態は変わります。野々宮家に来た(本来の息子である)琉晴(黄升炫)はその生活の窮屈さに苦痛を感じ、斎木家に来た(本来の息子である)慶多(二宮慶多)はその生活のゆるやかさに半ば嬉しそうに順応して行きます。

 ここで気になるのが、では、金銭的余裕もあり一等地に住み良い学校に進ませる事が出来る野々宮家より、金銭的余裕も無く郊外に住み教育も言ってしまえば杜撰な斎木家の方が、"子供が生育していく環境として良い"のか、という事です。しかしそこからより気になる、気にすべきは、『そして父になる』という映画がそういった環境を称揚しているのか、という事です。
 この映画は無論そんな単純なメッセージは放ちません。映画を見ていてこういった疑問を僕達観客が持ち得てしまう事自体に、ある種のメッセージを放っていると僕は感じました。

 この映画は基本的に、野々宮家の夫である良多の視点で描かれています。その中で全編に見えてくるのは、どうにも子供が"モノのような扱い"をされているのではないか、という事です。もっと言ってしまえば、"親の所有物"として扱われているようです。自分の子供なのだから自分と同じようなスキルを勝ち得、良い出世コースを進み、そしていつか自分自身が誇れるような息子に育てよう、といった親の思考が読み取れます。それは特に良多の描写に顕著です(良多が自分の父に、"サラブレッドを例えにして"、人間も血が大事だと説かれるシーンもあります)。
 ではそこで斎木家が全く逆かと言うと、どうもそういう風には描かれていないと感じました。斎木家も"子供と過ごした時間"を重要視しているとは言え、口をついて出るのは慰謝料の事ばかりだし、そもそも子供の交換について否を唱えるシーンもありません。彼らが持つ豪放磊落さ故に、子供の存在の危うさについても受け入れているように思えます。これが野々宮家よりも社会的乃至は倫理的に良い家庭だと(例え子供達が楽しそうに生育していたとしても)、必ずしも言えるでしょうか。勿論、賛否両論あると思います。だからこそ、微妙に複雑なのです。


 この映画は、良多が自分のデジタル一眼レフカメラのメモリーに残っている過去の写真を何気なく見ていて、今や斎木家で暮らしている慶多が、良多の寝姿や気付いていない瞬間を勝手に撮影していた痕跡を多く見つけます。そこで、これまで感情を大きく露にする事が無かった良多が噎び上げるようにして涙を流します。恐らく、彼はそこで始めて気付いたのです。良多が、否ここに登場する多くの大人達が、親から子への愛や想いでなく、"子から親への愛や想い"を全く忘れていた事に。
 慶多は親の言いつけを守り、親が願う道を逸れる事なく正しく成長していた。故に良多はいつしか慶多を"自分の所有物"、乃至は"新たなる自分"のように感じていたのだと思います。一方で慶多は、良多の子供として、それは言わば"親と他者としての息子"として、父良多を深く愛していた。それは良多の慶多への想いとはベクトルを向き合わせていながらも決して道を同じくしていないものでした。
 慶多は良多に「父でいてほしい」と想っている。それを理解した良多は、慶多ともう一度一緒に暮らすために、"良多の所有者"ではなく"良多の父となる"ために、斎木家に向かいます。

 映画のラストシーンで、その後両家がどうなったかは—交換を解消したのか、そのままなのか、はたまた他の選択肢を取ったのか—は描かれません。両家が仲睦まじく夕餉に向かうシーンでこの映画はエンドロールを迎えます。
 僕はそれで良いと思いました。最終的な決断が描かれたら、この映画は"両親が取るべき一つの回答例"を示す事になります。正しい回答は誰にも解りません。そんな事よりもこの映画が見せたかったのは、子供が持つ、"他者故の親への愛と想い"。だと僕は思いました。





 子供が親の所有物のように扱われているという問題について、僕も考えていました。親の趣味でド派手な服を着せられたり髪を染められたり奇抜な髪型にさせられたり、というのは今に始まった事ではありませんが、所謂キラキラネームというものに強くそれを感じます。漢字が持つ意味を考慮するといった事なく(無論、こういう子に育って欲しいという願いには親のエゴが含まれるのは自明ですが)、自分が好きな漫画のキャラクターの名前に当て字にして命名したり、子供が自分のオモチャに名付けるような訳の解らない言葉を名前にしたり、といった昨今一般的に溢れている事象に、親が子供を完全なる自分の所有物化(=将来的に他者として切り離す事を全く考えていない)しているのでは、という危機感を覚えていました。

 この映画の物語の発端である取り違えも、担当のナースによる、実は恣意的で私怨に塗れた故意な交換であった事が描かれています。これも子供を人間ではなくモノとして扱っている事の象徴になっていると思います。
 親にとって子は、血の繋がりがあり、そして長く共にする時間がある。しかし子供は最終的は他者である。それは悲しい事では決して無く、然るが故に発生する愛と想いがある。『そして父になる』というこの映画は、その事を描いているように感じました。




 当初危惧していた通り子供達の描かれ方について全然触れられなかったので(笑)、追記という形を取って、しかもちょっとした事しか書けないと思いますが、またこの記事内で更新します。子供をも他者としてしっかり描く。それが是枝作品の子供の描き方の魅力ですね。












2013年10月6日日曜日

撹乱と爆笑とグイドの夢? 園子温『地獄でなぜ悪い』


 現在上映中の作品ですが【ネタバレ】を気にせず感想を書き散らかします。途中で文体が変わるのは性格の問題です。


 "映画を撮影中の映画"が好きだ。映画の撮影が主題になっている映画。僕が見れている作品数は申し訳ない程に少ないが、どれも好きで仕方が無い。フェリーニ『8 1/2』、トリュフォー『アメリカの夜』、是枝裕和『ワンダフルライフ』、そして記憶に新しい、以前ここで激賞した吉田大八『桐島、部活やめるってよ』もそうだった。北野武『監督・ばんざい!』だって、そのジャンルに位置するというだけで好きと言いたくなる。
 なぜ"映画を撮影中の映画"が好きかを考えてみると、メイキングという行為自体の美しさと、作家の映画への愛情がリアルに垣間見えるからが恐らく最たる理由であり、そして特に近年の作品には於いては"映画を撮影している中で映画を撮影している"という入れ子構造に直面するために必然的に"映画"乃至は"撮影"についてのメタな視線が導入され、そのメタ性を作家がどう作品の中で扱うか、が見れるからだと思う。

 『地獄でなぜ悪い』も映画の撮影を主題にした映画だった。簡単にストーリーを書く。
 一人娘を将来女優にするために育てていたヤクザの組長とその妻だったが、幼少期の娘が単独でCM出演の機会を得ている時にとある陰惨な事件のため妻が投獄、そのため娘は女優業の道を断たれる。その後十年程経って、娘が順調に女優の職を営んでいると思っている(というか思わされている)十日後に出所する妻のために、夫である組長が、娘が主演の映画を自身でデッチ上げようとする。そこに無関係な善良な青年や、十代の頃から映画の事しか考えていないが全く成功する兆しの無いちょっと頭がアレな男とその仲間達が巻き込まれ、組長はなんと現在抗争している組への殴り込みを撮影して映画に仕立て上げようと提案する。


 
 
 感想文に入ります。見てない人にはなんの事やらの文章です。
 映画が終わりエンドロールに入った瞬間、池袋ヒューマックスシネマズの椅子に埋もれたままガッツポーズをしました。最ッ高に面白かった!もう、めちゃくちゃです。めちゃくちゃに面白いし、物語自体もめちゃくちゃです。味の濃い、しかも別種の味の映像が大量に連結されていて、筋はしっかり通っていながらも目紛しいほどです。

 この映画の好きな点を大雑把に三つ挙げると、一つ目はジャンル映画のコラージュである事、二つ目はカメラの介在による、"しかもフィクション内での"フィクションとノンフィクションの撹乱がある事、三つ目はとにかく面白くてめちゃくちゃ笑った事です。三つ目については見て頂くほか無いので、一つ目と二つ目についてなんとか書けたらと思います。(正直めちゃくちゃ笑った事がこの作品の最も褒めたい点なのですが 笑)

 一つ目、この映画がジャンル映画のコラージュである事です。先ず一番大きい枠として
、この映画はコメディ映画であり、そして同時にヤクザ映画です(タイトルバックと共に『仁義無き闘い』のテーマが流れる事からもそう思って良いと思います)。その次に大きい枠として、"映画を撮影中の映画"です。そしてこの枠の中乃至ははみ出た所に、アクション映画(佐々木のブルース・リーぶり、ファックボンバーズの喧嘩のジャッキー・チェンぽさ、日本刀による殺陣)、少年青春映画(ファックボンバーズの少年時代)、青年/中年青春映画(ファックボンバーズとヤクザの映画撮影)、映画館/映画愛映画(ファックボンバーズと映画技師。『ニュー・シネマ・パラダイス』みたいな。見てないけど)、トラブル巻き込まれ系映画(ミツコに連れ去られる公次)、逃避行ロードムービー/ラブストーリー(ミツコと公次)、クサいメロドラマ(平田と一夜限りの女)、B級スプラッター映画(ヤクザの抗争、殴り込み)、と枚挙に暇がありません。これは僕が勝手に細部をこじつけてる訳ではなく、鑑賞していてハッキリ、シーンごとでジャンルを感じます。
 これには、冒頭に書いた僕が"映画を撮影中の映画"を好きな理由として挙げた、"作家の映画への愛情"を感じます。こんな映画も好き、あんな映画も好きという想いが大雑把な"ジャンル"の編み目に濾されて、破綻しないギリギリのところでめちゃくちゃに詰め込まれているように感じました。これが大変心地良い。目紛しい程に色々なジャンルを見せつけられ、段々感覚が麻痺してきて自分が何を観ているのか解らなくなり、次第に色々な映画と一体化したような陶酔感すら味わいそうになります。

 二つ目は、カメラの介在という問題。これは前に僕が書いた山下敦弘『マイ・バック・ページ』の項、の文中にリンクしてるdemioさんの記事が、ちょっと進んだ物ですが資料になると思います(丸投げ)。
 カメラという物は力を持っています。このカメラという語は演出や撮影者という語に置き換えても構いません。どういう力かと言えば、無限に広がっている筈のこの世界の風景を狭小な四角い空間に切り取ってしまう力。そして、その切り取った風景を"映像作品化"してしまう力です。(demioさんはそこから遡行的に寧ろ現実感が生じてしまう事を指摘していますがここでは一体置いておいて)この映画では、このカメラの力、"映像作品化"してしまう力≒フィクション化してしまう力が一先ず注目されています。園子温はそのメタ性を活用しますが、しかし一筋縄ではいかないのが、"カメラが介在する事により全ては虚構化する"という初歩的な点のみを強調したわけではないという事です。
 映画の映像を我々は"現実世界でのフィクション"と知りながら、映画の中で起こった事は"映画の世界の中でのノンフィクション"と捉えます。
 (映画の中で現実に現れた)瀕死の重体を負ったヤクザが町を歩き、それをファックボンバーズのカメラが追う事で途端にそれは映画(フィクション)になってしまう。(映画の中で半ば用意された)目を見張るようなアクションシーンや甘くクサいドラマティックなラブシーンがあってもカメラが入らない事によりそれは映画にならない(ノンンフィクション)。そして最後の殴り込みのシーン。現実の殴り込みをカメラで撮っているからフィクション化してしまう、という単純な事ではなく、平田の監督/演出によって殺し合いそのものが半ば用意された演劇と化し、しかし実際に戦いが起こり人が大量に死に、そしてそれをカメラが撮り続けている。こういった事が、トートロジーになりますが"そもそも映画である映画"(=フィクションであるフィクション)の中でごちゃごちゃになっています。映画の中で一体何が映画で何が映画じゃないのか混乱してしまいます。カメラの介在の抜き差しだけで大いに撹乱されているようです。35mmを担ぐファックボンバーズのカメラマン二人が機関銃を手にして敵味方関係無く銃殺していくシーンも、カメラが持つ力を象徴しています。

 そして結末が面白かった。血みどろの抗争から、フィルムと録音テープだけを持ち去った重傷の平田が歓喜しながら夜の路上を疾駆し、そして唐突に「カット!」の声が響きます。その声は登場人物の誰の声でもない、『地獄でなぜ悪い』という映画の撮影者によるラストシーンの「カット!」なんです。平田は俳優・長谷川博己に戻りフレームの外に倒れ込み、物陰に隠れていた撮影スタッフの影がちらほらと現れ(カメラの前を横切る者も!)、そして映画はエンドロールに入ります。これが最後の大打撃。
 繰り返しになりますが、映画というものは、我々の現実とは切り離されているところのノンフィクションとして一先ず受け止めるのが普通の見方だと僕は思っています。しかしこの映画は、フィクション/ノンフィクションがその映画の中で撹乱され、そして最後の「カット!」により、その撹乱を内包していた、我々が推移を見守っていたこの映画自体が"カメラにより撮影されたフィクション"だという事が強烈に提示されます。これまで観客が感じていた撹乱、混乱、感情移入を一笑に付すような打撃です。
 しかし、「カット!」後の映像を本物のノンフィクションと単純に見なすわけにはいきません。エンドロールはこれからです。映画は未だ終わっていないのですから。

 この"カメラの介在によるフィクション/ノンフィクション"の問題、メタ性は、初歩的な事ではあります。しかし、この映画の圧倒的なテンションの中で繰り広げられる怒濤のフィクション/ノンフィクションの撹乱にはカタルシスすら覚える感があります。主眼が問題提起する事ではなくて、むしろ"遊び"として撹乱してしまう事。そしてそれが(無論要因はそれだけではないけれど!)130分間劇場を笑いの渦に叩き込むようなエンターテイメント性に直結している事。それこそがこの『地獄でなぜ悪い』という映画の魅力なのではないかと僕は思いました。なんとか三つ目の理由に漕ぎ着ける事が出来ました。


 最後に、平田が疾駆しながら空想するシーンについて。平田は回収したフィルムと音声で名作映画を作り上げ、馴染みの劇場でそれを上映し大変な大入りになる様を頭に描きます。ここで面白いのが、抗争で死んだ人間までもがその場におり、共に観客のスタンディングオベーションに囲まれるのです。自分の夢想/希望が完遂し、愛したスタッフ、登場人物が全て列席する。この空想が、『8 1/2』で主人公グイドが死後に見る夢想にとても似ていると言うのは、過ぎた事でしょうか。園子温のインタビューによれば、平田には若い頃の"映画に燃えていた"自分を重ねたという言葉があります。
 主人公に自分を重ね、そして映画への想いを詰め込んだ映画。この『地獄でなぜ悪い』という作品を、園子温流の『8 1/2』と捉えるのも、大げさでダサい解釈かもしれませんが、面白いのかもしれません。




追記1:
 『地獄でなぜ悪い』というストレンジ且つ力強く開き直っているタイトルについて。この映画に於ける"地獄"は、僕は単純に抗争を始めとした血みどろのシーンだと取って良いかなと思っています。地獄と呼べる程にエグいシーンばかりなのに、それが爆笑を誘ってしまう。地獄の映像で笑わせてなぜ悪い、と言われているように感じます。
 思えば園子温映画はどれもこれも地獄ばかりでした。紀子の食卓も、愛のむきだしも、冷たい熱帯魚もヒミズも別種のものではありながら地獄ばかりでした。しかし、そのそれぞれの地獄から立ち上がるそれぞれの感動がありました。地獄で恐がらせてなぜ悪い、地獄で泣かせてなぜ悪い、地獄で感激させてなぜ悪い、そして、地獄で笑わせてなぜ悪い。
 こう考えるとまた『8 1/2』的なタイトル感を覚えてしまうのですが...(笑)


追記2:
 書きませんでしたが俳優陣のコメディアンぷりもクッソ最高でした。堤真一のヲタっぷり(あれは昨今のアイドルブームに園子温がしっかり目配せがある事を示していると思います。堤真一の素振りは完全に80年代のアイドルファンでしたが 笑)や、星野源がゲロをスプラッシュさせながら平田の願いの札を発見する所とか思わず手を立たいて笑いそうになりました。
この映画の中で一つだけ目立った悪い点を挙げれば、ヤクザが撮影機材を事務所に搬入しているシーンでの、二階堂ふみ演ずるミツコが暇でカチンコで遊ぶシーン。あれはダメ、あれは超可愛すぎる。一気にふみ様映画になりかねない。あれはオフショットにしろ!!!




以上です。



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前回の記事から半年以上ぶりの更新となりました。仕事を増やしてから全然映画を観る時間を失ってしまいました(以前は各地の名画座に足を運んでいたりしたのに!)今月はなんと、園子温、是枝裕和、松本人志の新作が同時にロードショーになっているので、これを機にまた映画漬けの日々を再開出来たらなと思います。

2013年3月19日火曜日

最近見た映画(もうすこし体系的に...)

ポール・トーマス・アンダーソン『マグノリア』
地元板橋のTSUTAYAでレンタルしたら盤面が焼けていて視聴出来ず、池袋ロサTSUTAYAに行ったらレンタル中で(地元もロサも一本しか無い!)、まあ新宿や渋谷に脚を伸ばせば良かったのですが近くにあるのにレンタル出来ない状況がなんだか悔して、待ってたらロサで手に入れられたのでやっと見る事が出来ました。
 三時間を超える長めの作品ですが面白かったです!冒頭で提示される「不思議な偶然」の事例に比べると本編に登場する登場人物達の「微妙な繋がり」は非力に思えるのですがその深みは比では無いです。強烈な影響は互いに与えないながらも、付かず離れずの関係が決してドラマティック過ぎない、然るが故にリアルな劇性を持つ人生の不思議さを俯瞰させてくれます。その長時間の微妙な人物同士の関係が描かれる中、最後の「蛙の雨」という異常事態が登場人物皆に等しく降り注ぎます。
 この異常なシーンの、異様な感動と異様な説得力は凄いです。人生何があるのか解らない、何処で誰と不意に繋がっているのかも解らない、例え今実際に起こっている偶然にも自分は気付いていないのかもしれない。それが「蛙の雨」によって額装されて美しく展示されたような想いです。これがただの雨だったらつまらなかったと思います。人と人との繋がりも異様な偶然。蛙が降るのも異様な偶然。全ては異様な偶然。そう思わせてくれる感動的なシーンでした。

 ボンネットに打ち付けられて潰れて死んで行く蛙達の様はグロいけどネ!




想田和弘『選挙』
川崎市の市議選に立候補した山内和彦の行く末を撮影したドキュメンタリーです。想田監督はこのドキュメンタリーを撮影するにあたって、そこに独自のメッセージや批評性などは介在させずに、ただ撮る、「観察映画」を製作しようとしたそうです。
 市議選候補者の日々の奮闘、苦悩等の実情を開票の日まで見守って行けるのは大変に楽しかったです。特に映画終盤で小泉純一郎が演説の応援に駆け付けるシーンの盛り上がりは凄いです。一気にこの映像の説得力と重厚さが立ち現れます。
 「観察映画」という表現の可能性については疑問の余地はたくさんあると思います。その方法自体への懐疑は僕はここではしようと思いませんが、それでも気になったシーンはあります。先ずカメラ越しに候補者山内和彦に質問するシーンが一回だけあります。それと、地元の子供を映して彼らがカメラにアピールをするシーンがあります。これらは頂けないのではないでしょうか。そういったシーンが挿入される度に、そこにいてその風景を撮影している「観察者」の姿が否応無しに浮き上がります。映画を観ているこちらがまるで神の眼を持ったように事の推移を見守っている(無論そんな事は有り得ないですが。)事から一気に醒めて、この映画を撮影し編集した人間の存在を強く再認識させられます。するとその瞬間から、では監督は何を想ってこの候補者を追っているのか、現状の選挙制度や候補者の実情について何を考えているのか、どうしてこの候補者を追っているのか、どうしてこのシーンを撮影したのか、どうしてここでカットが変わるのか、とどんどん気になってしまい、要するにそこで客観的な「観察」の不可能性を"わざわざ"思い知らされてしまうんです。その不可能性はドキュメンタリー作品への懐疑なんかよりももっと直接的で、今自分が対峙している『選挙』という作品自体への懐疑にストレートに繋がってしまい、鑑賞が若干ダルくなってしまいます。
 山内さんの奥さんの存在がスリリングで良かったです。「候補者の妻」を追ったドキュメンタリーが観てみたい!




入江悠『SR サイタマノラッパー』
面白すぎて見終わって直ぐさまTSUTAYAに行ってシリーズの第二作目を借りて来て見てしまいました。
 冴えない男の青春敗退物語がユーモアたっぷりに洗練された映像で描かれているのが面白いのはそもそもとして、僕が一番この映画を見て「スカッとした」のは、HIPHOPという音楽の、日本への定着の困難さがこれでもかというくらい描かれている店でした。HIPHOPをやるためにはギャングにならなければいけない。HIPHOPをやるためにはオーバーサイズの服を来て派手なゴールドやシルバーをつけなければいけない。HIPHOPをやるためには歌ではなくラップをしなければいけない。HIPHOPをやるためには反社会的乃至は社会を批判するリリックを書かなければいけない。ただただHIPHOPという音楽が好きで自分もそれをやりたいと思ったとき、これほどの障壁を乗り越えなければいけない。主人公は映画の中でヤンキーに絡まれ、服装を馬鹿にされ、ラップを馬鹿にされ、不用意に書いた反社会的なリリックについて大勢の大人に詰問され、徹底的に「善良な日本人がHIPHOPを始める事」の困難さを突きつけられます。
 この映画が良かったのはその「困難さ」がそのまま日本に於けるHIPHOPの問題として提出されているわけではなく、主人公一個人の人生の困難さとして描かれている所です。そのまま問題として提出いたらちょっとどうしようもないと言うか、「じゃあどうしろっていうんだよ」という感想を抱いてしまったかもしれません。問題が主人公個人の問題として描かれているから、「困難だが、その困難を受け入れつつも行なっていくしかない」という力強い希望が現出します。

 友人にも「やっとSR見たのか。今まで見てなかった事後悔したでしょ」と言われましたが、もう力強く頷く他ありませんでした!




入江悠『SR サイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム』
二作目は舞台を群馬に移し、地元の女性ラッパーチームの再起動が中心に物語が展開します。今作は一作目であったようなHIPHOPの問題についてコンセプチュアルに描く事はなく、ただチームの再起動と人生の諸問題に揉まれてその再起動が残酷に失敗していく様が描かれる。これも本当に面白くそして物悲しいのですが、これを見ると一作目にあった「日本人がHIPHOPを始める事」という問題が実は本当にただただ主人公独自の困難としてしか想定されていなかったのではないか、と思わされます。もしそうだとしたら、ミクロの問題を描いていたら知らぬ間にマクロの問題を提起していたという事ですね。
 群馬から地元埼玉に戻ろうとするSHO-GUNの二人に向かって、主人公アユムが「二度と群馬に来んなよ」と笑いながら言うラストシーンはあまりに胸が苦しくなりました。SHO-GUNの二人が来なければチームの再起動なんか考えなかったし、それによる人生の残酷さと孤独に直面させられる事もなかった。しかしそれによって、冷めない青春の美しさや人々との繋がりの美しさを強烈に再認識させられる事も又なかった。本当に「泣き笑い」のラストです。
 
 安藤サクラさんのラップ超カッコいいですね。あとアユム役の山田真歩さんの身体が冒頭からなんとなく生々しく映されてて、そもそもの「女性性」というトピックを最初にちゃんと植え付けられるのも良かったです。




山下敦弘『苦役列車』
文芸坐で見ました。
 この映画は上映時間が113分あるのですが、その中で1秒たりとも主演の森山未來が森山未來に見えませんでした。ずーっと見知らぬ下衆で下品でどうしようもない若いんだが老けてんだか解らない謎の小人物に見えます。それくらい役作りと演出が凄い。
 飯食いっぱなし、酒飲みっぱなし、煙草吸いっぱなし。そして汗を出し吐瀉物を出し精液を出し尿を出し糞便を出し涙を出しの113分間です。山下作品の魅力について僕は「生々しさ」というワードを頻出させますが、この作品は見ているこちらが嘔気を催すような「生々しさ」、もっと言えば「生臭さ」が前面を覆っています。というかもうそれだけで出来ているような映画です。そういう意味に於いては集大成なのかもしれません。

 ふと考え込んでしまったのですが、観客を映画から逃げさせない作品はどうしてその力を持つ事が出来るのでしょうか。『苦役列車』と園子温『冷たい熱帯魚』を"対比"させて考えてみたのですが(前者は現実の力を巧みに利用し、後者は虚構の力をふんだんに利用しているのではないか...?)、未だちょっとその回答は得られそうにありませんでした。




園子温『希望の国』
見終わって、どう受け取っていいか迷う作品でした。しかし立ち返れば、この作品は「長島県」という実在しない場所を中心に描いた映画で、そこで重要なのはこの「長島県」そしてこの県で起こる原発事故は、実際に原発事故のあった「福島県」をフィクション化したものではなく、福島の事故の後に「また」原発事故が起こった県として描かれているという店が重要なのではないかと思いました。
 長島県の原発事故は実際の福島の事故と地続きになっている。だからフェイクドキュメンタリーにこの作品は近似しています。そしてそこには、「また同じ事が起こる」という、日本政府乃至は東京電力に向けた"強烈な皮肉"としての予言が立ち現れています。曰く、また地震は起こるだろう。その頃にも地方沿岸部の原発は無くなっておらず、また津波でやられるだろう。原発が爆発するだろう。国はあらゆる情報を隠すだろう。人々は残酷に傷つき、狂い、そして安全に住める地域がこの国からまた減って行くだろう。...
 この忌まわしき予言のためだけにこの映画は存在していて、人々の物語が描かされいたように、僕は感じました。だから本編の展開を細かく追っていく事に若干の徒労を感じたのはそのせいかもしれません。
 先ほどの『苦役列車』の感想の最後で考えた事がここで不意に思い出されました。福島の後の「長島」を予言する。この予言の力は、虚構の力を持ってしてでないと「皮肉/批判」として機能しなかったでしょう。言うまでもなく、舞台を静岡県や茨城県にした途端にその予言はただの悪夢的な予告にしかなりません。

 しかし『希望の国』というタイトルだけは僕はちょっと解せません。少なくともこの映画では「希望」は描かれていない(少なくとも『ヒミズ』で描かれたような強烈な「希望」は)と思います。これは政府に抗い放射性物質に怖れる人々の悲劇であり、忌まわしき予言です。この物語に「希望」を冠する事の意味。この「希望」もまた皮肉なのでしょうか?もしそうだとしたら、あの『ヒミズ』に於ける素晴らしい「希望」を白けさせるような気がするし、そのままストレートに希望という意味だとしたら、なんだか映画にそぐわないし、『ヒミズ』という作品の"長大な蛇足"。という様相を呈してしまう気がします。どうなんでしょうか...




リュック・ベッソン『LEON』
僕の中で『ロスト・イン・トランスレーション』以来の、「素敵な映画かと思いきやおもしろ映画」でした。名作誉れ高いし、今更あんま多くを語る気になれないなんですが、これ、面白くないですか?レオンが強くなるために牛乳を飲みまくったり、12歳の女の子に殺しを教えて危険な存在になるのに扱いが杜撰なせいで大問題が起こったり、麻薬捜査官が完全なキチガイのヤク中だし、レオン一人を殺すためにロケットランチャーが用意されたり警官「全員」(!)が招集されたり、「おもしろ」の連続でした。ごめんなさい。終止口あけっぱなしのジャン・レノを見て、これは素晴らしいコメディ俳優だと思いました。




ジョン・カサヴェテス『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』

下高井戸シネマで見ました。
 凄く良かったです。マフィアにハメられて多額の借金を背負い、それを帳消しにするために殺しをさせられる主人公。その中で自分も深手を負い、死を直近に感じて行くのですが、それを主人公が経営するストリップ小屋の猥雑なショーと気怠い歌が彩っていく。酒と煙草に塗れた店内で、豊満なバストを周囲にはべらせて汚いメイクの男が愛の歌を唄う。まるで美しいとは思えないシーンなのですが、そのデカダンスに満ちたステージと、狂ってしまった人生に翻弄される主人公の対比がむしろ切なく、心の涙腺を決壊させます。カサヴェテスの映画って、ある特定のシーンで爆発的に感動するというよりは、鑑賞している内に鳩尾のあたりにジワジワと深い感動が溜まって来て、ラストシーン、そしてスタッフロールが流れ出す頃にそれがゆっくりと溢れ出るように涙してしまう感じが有ります。
 またこの映画では音楽の使い方も面白かったです。猥雑なショーの中での気怠い歌、前半の弛緩した時間をむしろ律するような刺激的な音楽、そして後半の緊迫した時間を彩色する事無く放り出すような無音。これらの対比がまた映画に深みを与えているように感じました。




 とにかく最近は日々やたらと映画を見ているのですが、どうにもデタラメに見まくっている感じがついに否めなくなってきました。もうちょっと体系的に捉えて行かないと色々取りこぼしてしまう気がします。気をつけたいですね。



2013年3月11日月曜日

最近見た映画(良い映画に出会う運...)

ソフィア・コッポラ『ロスト・イン・トランスレーション』
なんとなく借りた一本。素敵な大人の恋愛映画かと思いきや全くそんなこと無かったです。シュールな笑い満載の大爆笑・珍映画でした。いきなりケツから始まるから何かと思いきやですよ。
 例えばなんですかね、ボブ・ハリス(ビル・マーレイ)の前に突如現れた日本人の娼婦が「ストッキングを裂いて」と言うので渋々ながら手を伸ばすと「やめて!触らないで!」と突如絶叫し、そのまま床にぶっ倒れてボブの脚を掴んで転倒させたりしながら「やめて!触らないで!どこかへ行って!」と叫び続けながらボブの身体を離しません。発狂です。
 そしてボブがホテルのバーでウィスキーを飲んでいる所にシャーロット(スカーレット・ヨハンソン)やってくるシーン。俳優であるボブはサントリーのCMの撮影で「ほっと一息、サントリータイム」と言わされた事をホテルマンと話して盛り上がっていたのか、シャーロットが「何を飲もうかしら」と言った時に、ホテルマンと口を揃えて「ほっと一息、サントリータイム」と微笑みながらグラスを傾けます。それを見たシャーロットも微笑んで、「ウォッカトニックにするわ」。ウィスキー飲めよ。




パク・チャヌク『オールド・ボーイ』
「もう勝手にやってろよ」と思ってしまいました。本当に悪い意味で"マンガ"。衝撃を与えたいだけのバカ映像のごった煮。十五年の監禁の中でイメトレを重ねて100人組み手に勝てるほど喧嘩が強くなるってなんだ。そもそもその100人組み手はなんだ凡庸な時代劇か。その組織の規模はどうなってんだ。そのハンマーはなんだよなんのこだわりだよ。結婚して子供がいる身なのに女性とのセックスを再度イメトレして結果編み出した方法がほぼレイプってなんだ。学校で姉とヤッて目撃されて噂まかれて自分で姉を殺して逆恨みってなんだ。15年監禁した上に自分の娘とヤるように仕向けるとかやりすぎなんじゃないのか。それが催眠の力ってなんだ、運良く二人とも人より催眠にかかりやすい質だってなんだ。ボコボコになって自分の舌を切らせる程に謝らせて自分は自殺ってなんだ。何が良いんだ!




ポール・トーマス・アンダーソン『パンチドランク・ラブ』
面白かった!冒頭、全く無意味に乗用車が大回転する大事故が起こって、吹き飛ぶ車の脇を高速ですり抜けて来たワゴン車が急停車してゴミ捨て場でも何でも無い路上にいきなりピアノ(ハルモニウム)をドガッと放置して走り去って行くシーンからあまりの衝撃で「パンチドランク」状態にされてそのまま一気にエンディングまで連れて行かれます。展開や設定がスリリングなまでに刈り込まれているのも壮快でした。ストレンジラブストーリーだけれど、「ラブ」が成立するための「ストーリー」がほとんど無い。二つの恋心が、不意に居合わせた磁石のN極とS極のようにハイスピードにぶつかります。それがまた美しい。
 途中ハワイのシーンになるのですが、そこで映るものが日本人のCAだったり日系人?達による阿波踊りみたいな練り歩きだったりで全然ハワイじゃないのも面白かったです。




三池崇史『悪の教典』
文芸坐で見たのですがさすがにブチ切れそうになりました。どうやったらこんな恥ずかしい映画が撮れるんでしょうか。
 そもそも人間の描き方が杜撰で、授業中に回答した後にわざわざ「東大目指してるんで」とか言うようなガリ勉は存在しないし、物理の教師が生徒にハスミンの経歴を説明する所でも黒板の使い方があまりに説明的すぎる。細部かもしれないが、人間の描き方の巧拙は細部にこそ宿る。
 そして何より何よりダサい。ダサすぎる。美術教師の豪奢な自宅でモダンジャズがかかっているシーンで「うわダセえ、居酒屋かよ」と思ったらそこからダサい映像の連続どころか肥大肥大の雪だるま。ハスミンが遂に本腰入れて大量殺戮を始めるというシーンで、学園祭のド派手なセットが照明でカラフルに輝いて、ハスミンが散弾銃を乱射しながらなんとビッグバンドによるスウィング・ジャズがかかる。最悪にダサい!!一体何十年前の異化効果のセンスなんでしょうか。
 最後のシーンを見て僕の後悔は確かなものになりました。手錠を嵌められパトカーに連れられるハスミンが、振り向いて生き残った生徒二人に「全ては神の言葉のままにやった事だ。2年4組のみんなは悪魔に取り憑かれていた」と囁くのですが、それを見た生徒が「こいつは狂ってるんじゃない。もう次のゲームを始めてるんだ」と怯えます。要するに責任能力が無い事を装うために発狂しているフリをしている。という事なんですが、そんなのどうでもよくて「ゲーム」って何だよ。目の前でクラスメートが山ほど惨殺されて自分の意中の男子も殺されたのにそれを「ゲーム」なんて呼べる人間がいるのか。ダサさの極地であり人間が描けていない証拠となるセリフ。二度と見たく有りません130分間無駄でした。
 (俳優の名前を出してないのは無論意図的です)




細田守『おおかみこどもの雨と雪』
文芸坐で『桐島、部活やめるってよ』のついでに見ました。嫌な映画を見たな...という気持ちで一杯です。
 先ずなんで狼男と子供作ったんでしょうか。子供が狼の性質を持って生まれて来る可能性は十分にあるしそこに覚悟があったように思えない。一人目が生まれて実際に狼人間で、その育て方に迷ってるにも関わらず二人目を作る。気が狂ってる。狼男との生ハメってそんなに最高なんでしょうか。
 死んだ父親の狼男は一体どれほどの高額な貯金を残したんでしょうか。都会で三年だの四年だのを全くの無収入状態で子供と自分を養って、その後地方に引っ越してボロボロの廃屋を清潔に住めるレベルにリフォームしてそこからまた無収入で暫く暮らしていけるほどの額って幾らなんでしょうか。仕事は配送トラックの運転手で何かで勤務日数も普通だったと思われますが
 そして母親ハナ。人間ってそんなに強く無いでしょう。育て方も解らない半人半獣の子供を二人抱えた所で父親が死んでその死体がゴミ収集車に投げ込まれて潰されるシーンを目の前で目撃して、そう簡単に「二人を育ててみせる」なんて奮起出来るんでしょうか。父親の顔写真(遺影代わりの運転免許証)を見て「"子供は任せた"、そう言ってるように思えた」ってもうマジックマッシュルームやってるとしか思えません。なんでそんなに幸福の方向にしか思考が働かないんでしょうか。一瞬でも後悔のそぶりを見せたりするのが人間なんじゃないんですかね。それに自分の不注意で事故死した父親が「子供は任せた」なんてバンカラで無責任な事を死して尚思ってるなんて考えられないというか、死んでしまった父親の心に対してあまりに身勝手な妄想です。
 最終的に子供二人、姉は人間の道を選び学業に励み、弟は狼の道を選んで山に入った。って結末どうなんでしょうか...。僕はスッキリしないどころか「こういう話を見たかったんだっけ?」という気分です。「もう勝手にやってろよ」と思いました。


 でもおおかみこども、映像がとても奇麗で思わず涙が出て来るシーンが幾つかありました。



ではまた。




2013年3月10日日曜日

吉田大八『桐島、部活やめるってよ』


 池袋の名画座・新文芸坐は、第36回日本アカデミー賞が発表される三月八日のその二日後の日曜日に、周到な二本立てを用意していた。その二本とは吉田大八『桐島、部活やめるってよ』と細田守『おおかみこどもの雨と雪』。僕はどちらの作品も未見だった。文芸坐の予想は的中し狙いは成功したとしか言う事が出来ない。この二作品は第36回日本アカデミー賞に於いてそれぞれ「最優秀作品賞」と「最優秀アニメーション作品賞」を獲得した。僕が駆け付けた「桐島」の12:10の回は満席となり僕は立ち見で鑑賞した。その後当初見る予定は無かった「おおかみこども」を座って鑑賞し、そしてある事情からそのままもう一度「桐島」を観た。

 一先ず桐島について感想を書きたい。上手く書ける自信はいつものように、いやいつも以上に無い。

 12:10の回の「桐島」を、要するに初めて観る「桐島」を、正直僕は楽しみきれなかった。いや、楽しみ方を間違えていた。かなり質の高い映像である事は解ったけど、見終わってとにかく後悔したのは昨日同じ文芸坐で『悪の教典』を観た時に(なんだよあの映画)、併せて桐島の予告も見てしまった事だ。
 予告の中の煽りとして、「桐島に一番遠い存在であるこの男が動き出す」みたいな言葉があった。男とは神木隆之介演じる前田涼也だ。バレー部の万能の男・桐島が部活を辞めた事によって巻き起こった問題に、関わりのなかった映画部の冴えない男・前田が立ち向かって行く、そういう展開があると素直に思わされるものだった。
 だから僕は「いつ前田が桐島の問題に向かって動くのか」を緊張しながら見守っていた。そしてついぞそんなシーンは無いままに映画は終わった。愕然とした。騙されたと思った。見ていて映画が明らかに"面白そう"だっただけに、要らない期待を持ち続けたおかげでちゃんと作品を見つめられなかったと思った。
 その回の「桐島」を見て帰る予定だった僕は何だかいたたまれず、劇場を出る前にロビーTwitterのタイムラインをチェックしたら「黄砂ヤバい」みたいなpostが散見されて外に出るのをちょっと怯えて、そのまま劇場に残って「おおかみこども」を見て(そして大変嫌な気分になって)、それで帰ろうかと思ったが「いや、もう一度、ここで今見ないとダメだ」という直感が働いて、二度目の鑑賞に至った。冒頭で僕が書いたある事情とは簡単に書けばこういう事だ。


 そして「桐島」二回目の鑑賞。
 最高だった。
 一度見た、と言うかたった二時間前に見た映像が、初めての鑑賞を超える新鮮さを持って僕の前に立ち現れた。ストレートに感動した。吹奏楽部が演奏するワーグナーが鳴り響く中の屋上の乱闘シーン。空想の中で首筋から血を噴き出して倒れるかすみ(橋本愛)。前田の声無き咆哮(絶叫にあらず)。そこで、涙した。

 この映画の表立った主題は、桐島がバレー部を急に辞めた事による周囲の人間関係の変化と、所謂スクールカーストの残酷さ、生々しさだ。しかし何よりこの作品に重厚さを与えているのは、その主題を支える「出来ない奴は出来ない」という現実だろう。登場人物の多くがこの問題に直面している。そしてそれぞれが各々の解決へ向かおうとしている。

 バレー部で桐島のサブを任されていた風助(大賀)は、辞めてしまった桐島の後任にあたって、自分がどれだけ努力しても実力が足りない事に苛立ち激昂し練習に執着する。
 沢島亜矢(大後寿々花)は菊池宏樹(東出昌大)に想いを寄せているが、自分から近付く事はおろか話しかける事も出来ずただただ見つめている。映画終盤で彼女は恋をキッパリと諦め、吹奏楽部の長としての役割に徹する事を決意する。
 前田と武文(前野朋哉)は運動もからきしの映画オタクでスクールカーストの最底辺に位置し鬱々としているが、非差別意識を選民思想にすり替える事によってやりすごしている。

 「出来ない奴は出来ない」と映画の冒頭で自ら口にした宏樹は、中途半端な放浪者としてこの問題達の間を歩いている。宏樹はこの映画の中で、問題と「直面出来ていない」存在として描かれている。
 宏樹が直面すべき問題とは何だったのか。それは野球部キャプテン(高橋周平)との会話の中で、明言されないまでも浮き上がって来ている。このキャプテンは3年の夏を過ぎたのに部活動を引退していない。映画終盤、宏樹がその理由を問うと、「ドラフトが終わるまでは」とキャプテンは答える。つまり、最後の最後まで「スカウトが来る」可能性に懸けてるー正確に書けばその可能性がある内は"努力していたい"ーのだ。これは桐島が、県選抜に選ばれる程の実力を持っていたのにも関わらずその中途でバレー部を辞めた事と奇麗に対になっている。そして恐らく宏樹が野球を辞めた理由は、野球を続けて行った所で何かを得られる自信が無くなったからだろうという事が想像出来る。「出来ない奴は出来ない」="成功しない奴は(どんなに努力/継続しても)成功しない"。
 宏樹はこの問題に対して、「出来ないのだから、やらない」という解決方法を見いだし野球部の活動を辞するが、完璧には野球を捨てる事へ踏み切る事が出来ない。練習に出ないにも関わらず未だに背負っている野球バッグがその証拠だ。

 放浪者・宏樹は、桐島を巡る騒動の末に前田と対面する。冴えない前田の映画に懸ける凄まじい情熱を見て宏樹は、そこにキャプテンと同じものを感じたに違いない。「今は未だダメでもこの先に成功を見ている」という思いを持っているのだろうと。
 宏樹は前田のカメラを借りてインタビュー風に問う。「将来は映画監督ですか」「女優と結婚ですか」「アカデミー賞ですか」 先二つの質問については照れくさそうに「いやあ...」と呟くだけだった前田は、三つ目の質問で急に表情を真剣な物にする。そして、それは全く疑いが無いものだと言う風に、「映画監督は無理だよ」と答える。宏樹は驚く。当たり前である、「絶対映画監督になってみせる」といった類いの答えが返って来ると思っていたからだ。続けて問う。「じゃあ何で、いまこんなカメラ使ってまで映画撮ってるの」と。前田はまた照れくさそうに答える。「自分が好きな映画と、今自分が撮ってる映画が、"繋がってる"って思う瞬間が、本当にたまにだけど、あるから」 そう言うと前田は宏樹が構えていたカメラを取り、宏樹にレンズを向ける。「...やっぱ、かっこいいね。かっこいい」と前田は宏樹の容姿を褒める。宏樹は、「いや、俺なんか」と呟いて、そして不意に眼に涙を浮かべる。(カーストの上下の構図が改めて提示されつつも、上に位置しているはずの宏樹が下に位置してる前田に対して自分を恥じるという展開/転回にもなっている)
 この瞬間、宏樹は自分が問題を曖昧にして誤魔化していた事を思い知り、自分という存在が酷く矮小で情けないものに思われたのだろう。「出来ないのにやる」(=成功しないのに続ける)事は全くの無意味だと思っていたが、しかし今前田がまっすぐに見せた「出来ないのにやる」事は、あまりにも美しく誇らし気だった。それは「出来る/出来ない」(=成功する/しない)は関係無く、とにかく今自分の好きな物に熱中する、青春の充実だった。そしてそれは、スカウトの可能性を棄却しないキャプテンにも微かに見いだしていたものだった(映画の途中、夜の路上でキャプテンが素振りをしている所を宏樹は目撃する。素振りを終えたキャプテンが宏樹のいる方向へ走って来て、菊池は思わず隠れてやり過ごした。練習復帰を誘われるのが嫌だったからではなく、"熱中している"キャプテンと対峙するのが怖かったからだろう)。
 宏樹はそのひたすらの情熱を持ち得なかった。だから野球を「出来ないのにやる」事も、そして「出来ないからやらない」という事が出来なかった。

 映画は、前田と別れた宏樹が、バレー部を辞めその後の動向が未だ掴めない桐島に電話をかけながら、自分がその"参加をやめた野球部の練習を見つめる"後ろ姿で終わる。このシーンでの宏樹の思いは複雑なものだったろう。だから桐島に電話したのかもしれない。万能で実生活も充実しバレー部の活動でも「成功」に向かっていたのに、それを放棄した桐島。どうして"「出来るのにやらない」(=成功するのに続けない)"という異様な選択したのか、その真意を知りたかったのだろう、僕はそう思った。
 宏樹が自分の問題に真に切迫した瞬間だった。


 この映画に於けるドラマは、成功の道にいる桐島が部活を辞めた事によって、周囲の人間の「出来る/出来ない」「やる/やらない」という問題が浮き彫りになったからこそ立ち現れたものだった。そこに、依拠する所を同じとするスクールカーストの現実も衝突し、物語はより複雑で重層的になり、映画の深みを増していった。

 この見方を、僕はなんとか二回目の鑑賞で獲得する事が出来た。一回目を無駄にした理由は既に書いている。

 だから最終的な感想としては、


 「桐島、サイッコー超おもしれえマジでありがとう泣いたよ!!ただあの予告編は何だよクソクソクソ!!」


 といった感じ。



 あと褒めたい所は、出演者の全てと言ってもいいくらいなんですけど、演技が素晴らしかったです。本当に自然。時折入るギャグっぽいシーンも、過剰なエンタメにならずあくまで「高校生の会話」の内にとどまっています。※ちなみに俺が一番好きなのはバスケしてる所で竜汰(落合モトキ)が女子のいなくなった窓を見上げて「いねえし」と言う瞬間的なシーン。物凄く現実的かつ鮮やか。
 あとドラマ『セクシーボイスアンドロボ』を見て、「こんな天才がいたのか」と思わされた大後寿々花さん。(あのドラマは脚本はアレですが大後さんの演技の力によって名作に仕上がってます。なんど大後さんに泣かされたか...)ドカンとは来なかったですが、セリフを使わずに恋心を表現する所が多くて、それがとても良かったです。アルトサックスの練習中に宏樹と沙奈(松岡茉優)のキスシーンを目撃して、いたたまれなくなってアルトを口から離す瞬間に、マッピーが口に引っ掛かって唇が一瞬引っ張られるシーンがあったのですが、あれは指示なんですかね?キスを前にして「唇」を使う吹奏楽器が凄く皮肉的に輝いて胸を締め付けられました。
 そして本当に本当に、神木隆之介くん素晴らしかったですね。天才子役なんて言われてもてはやされて、成長した後を危惧されてましたがもう全然全然。神木伝説は未だ終わらず!

 あと衣装が凄く良かったです。割りと服装が自由な学校なのか、パーカーを着てたり明るめの色のセーターを着てる生徒がいたのですが、どれもこれもセンスが良くて見ていて楽しかったです。
 ああ、本当に面白い映画だった。


 ではまた。

 



2013年3月5日火曜日

最近見た映画(あけましておめでとうございます)


11月から中途半端になってなんも書いてなかったですね。もっとゆるくやっていきたいと思います。

 僕は音楽、美術、詩歌(最近は小説も)、映画、アイドルが好きなんですが、それぞれを体験した時に、感想を述べたい気持ちがアガるというか自分の中で言語がばーっと発生するのは映画とアイドルなんです。美術もままありますが、音楽と詩歌に限っては全然語る言葉が出てきません。ただただ陶酔っていう感じです。無論アナライズというか技術的な事は言えるのですが、まあまあの量を持った文章は全然書けません。これがどういう事かは自分でも分析出来ません。

 なのでブログで書く事も自然と映画とあとちょっとアイドルの事になっちゃうんですよね。

 とりあえずTSUTAYAログと自分の朧げな記憶を頼りに最近見た映画、というか前回の記事である『それでも僕はやってない』以降に見た映画を列挙してみたいと思います。TSUTAYAログを見ると12月、1月は映画借りてなかったみたいです。【劇場】と記してないのはDVDで見た作品です。


2012年 11月

小津安二郎『晩春』

ラストシーンが蛇足だという批判もあるようですが僕はあすこでグッと来ました。抑えていたものが最後に、静かに、孤独に、横溢する。とても美しいと思います。



北野武『HANA-BI』

 こりゃ海外で超ウケるのも頷けるわ。という作品でした。北野映画特有の暴力性、物悲しさ、カットの一枚絵としての美しさが北野アート、日本的な風景や叙情に彩られて、もう寧ろ「むさ苦しい」くらいに良い作品です。むさ苦しかったです。



2013年 2月

【劇場】ウェス・アンダーソン『ムーンライズ・キングダム』

 冒頭からもう心の中で「ウェス・アンダーソン最ッ高!最ッ高!最ッ高!」と叫んでしまい、シンプルなストーリーとあまりに可愛く素敵な映像に引き込まれていつの間にかわけがわからないくらい泣いていました。とりあえず今の所の今年最高の「映画体験」!
 駆け落ちした二人が辿り着いた目的の入江で、二人一緒にではなく浜辺の端と端から「せーの」で飛び込むシーンなんかもう胸が締め付けられて締め付けられて締め付けられてたまらなかったです。端と端="「ここ」から「ここ」まで"が、僕/私たちだけの秘密の国なんだ。というのが美しく甘酸っぱく表されたシーンでした。



【劇場】高橋栄樹『DOCUMENTARY OF AKB48 NO FLOWER WITHOUT RAIN 少女たちは涙の後に何を見る?』

 DOCUMENTARY OF AKB48シリーズを「映画作品として批評する声が少ない」というのも全く致し方ない事ですよね。特に48ファンであれば、一年に一度の活動報告映像として見てしまっても全然無理は有りません。
 実際この作品、僕は凄く「映画として」楽しめました。「センター」という特別な居場所を巡る物語としてとても奇麗に作られていたと思います。映像も息を呑む程美しい所が多々あります。
 だけどなんというか、それがやっぱりアイドルファンとしては辛かったですね。彼女達が背終わらされている不条理、体験している地獄が、結局良質な映画の中に回収されて「美しい正史」として纏められてしまう。



山下敦弘『リンダリンダリンダ』

 エンドロールが始まった瞬間思わずバチンと手を叩きました。もう、傑ッ作!公開された当時、『スウィングガールズ』みたいな潮流にある作品みたいな感じで宣伝されていたので見なかったのですが、それを後悔しました。
 観客をノルタルジーと後悔の渦に叩き込む青春ムンムン映画なんかじゃないです。本当に、軽音をやっている女子高生の「とある一ヶ月間」を鮮やかに切り取っただけのような映画です。劇的なカタルシスやエンタメ的な不必要な説明過剰は一切無し。そもそもブルーハーツに彼女達は全然思い入れは無い(!)。だからこそ、変に化粧を施されない少女達の日々、拙い演奏の魅力が大爆発しています。「ありがちなセイシュンものでしょ?」と白けて見てない人は絶対に見た方がいいです。
 (あとバンドの四人が全員好きなので困りました...。ペ・ドゥナ可愛いですよね。ベースの人が特に気になって、この女優さんが出てる映画もっと見たい!と思ったら女優じゃなくてベースボルベアーっていうバンドのベースの方だったんですね...)



ウェス・アンダーソン『ダージリン急行』

 カメラワークや不意に現れるアーティスティックな映像なんかはウェス作品だなーと思ったのですが、今一のめりこめませんでした。物語の根幹となる「旅」が、それこそ根幹となるための立地の仕方が甘いように思えて、ちょっとぼーっとしたまま映画が終結した印象でした。



オムニバス『ユメ十夜』

 正直、見る必要なかったなと思わされてしまいました...。山下監督目当てで見たんですが。元々シュルレアリスティックである原作に現代的な奇怪さで彩色し直そうとしてる作品が多かったように思われるのですが、ひたすらグロテスクに終わってるものばかりだったと思います。
 第九夜(監督・脚本:西川美和)、第十夜(監督・脚本:山口雄大、脚本:加藤淳也、脚色:漫☆画太郎)が好きでした。前者は原作により叙情性と皮肉を加えていてスタイリッシュ。後者はもうひたすらに馬鹿にブッ飛んで、これくらいやらなきゃ痛快じゃないだろ!十夜がここまでの作品を笑い飛ばしてるだろ!と思えて良かったです。



ポール・トーマス・アンダーソン『ブギーナイツ』

 『ザ・マスター』公開の前にPTA作品見ておこうと思って『マグノリア』を借りたら盤面が焼けてて見れなかったんですよ。ので次にこれを借りました。
 面白かったです。80年代前後のアメリカのポルノ史を追えるのも良かったし、何よりポルノムービー業界を主に描いているのに全く下衆じゃない。美学と誇りに溢れた青春映画です。ポルノ、ドラッグ、暴力の側から描いたアメリカっていう感じで、繰り返しになりますがそれが下衆じゃないのが良かった。勧善懲悪、成功、カタルシスのアメリカではないアメリカ。それが良く描かれていたと思います。



山下敦弘『マイ・バック・ページ』

 山下監督は『松ヶ根乱射事件』で惚れて、また最近山下監督ファンの方と友人になったのもあって追うようになりました。
 曖昧さや冗長さが散見されて、ちょっと見ていて疲れました。でもあのラストシーンで胸を締め付けられた後に、その「疲れ」こそが美しい体験なのかもしれないと思わされました。革命に燃える学生の熱い意志よりも、それを追うジャーナリストの誇りよりも、とにかくあの時代の「疲弊」。それこそがこの映画の主題だったと思います。だから全く疲れないスタイリッシュな見せ方だったら、全然響かなかったのかもしれません。僕はこの映画を見て疲れました。その疲れはきっと、登場人物が痛い程に感じた「疲れ」と繋がっているものだと信じています。
 あとdemioさんも言ってましたが煙草をアホほど吸いまくってるのがマジで良かったです。山下仕掛け。



西川美和『ゆれる』

 確か『パビリオン山椒魚』と同時期に公開された映画ですよね。
 賛否あるみたいですが、僕は好きです。先ずタイトルが凄い。「ゆれる」。解るのか解らないのかが解らないこの言葉。劇中で道場人物がこの言葉をセリフの中で発する時の緊張感は凄いです。ゆれるとは何か?とかなり神経が研ぎすまされます。
 この作品は展開の説明の省き方が物凄く鮮やかです。説明的なセリフやカットを入れずに「今何が起こってるか」を、"注視さえしていれば"解る形になっています(これって俺は最高だと思うしこういう技術が有ってこそ芸術映画だよなと思ってます)。だから物語の展開や推移は凄く解るのだけれど、注視していても登場人物の心象が掴めない。言ってる事は解るけどそれが嘘なのか本当なのか、嘘だとしたら/本当だとしたら何故そんな事を言うのかが解らない。これは悪い意味ではなく、人間の生々しさの現れに感じました。人物の発言/思考も「ゆれる」し、それを見ている観客の理解/判断も「ゆれる」。それが僕は良かったです。描きたいのは事件じゃなく、そもそもの人間なんだという気概。



ポン・ジュノ『殺人の追憶』

 惜しい。実に惜しすぎる。連続殺人事件を追う刑事達の、掴めない闇へ向かう物悲しさ、徒労感、絶望感がとんでもなく美しくまた生々しく描かれた作品です。僕はこの映画のラストシーンを忘れる事は出来ないでしょう。あそこにこの映画の全てが、分散されていた魅力の全てが再結集し凝縮し悲しい宝石のように光り輝いていたと思います。
 ただ脚本がマズい。そこ展開としておかしくね?もちょっと説明が必要じゃね?人物の反応が必要じゃね?と見ていて思ってしまう箇所が散見されます。また中心の登場人物以外の脇役の使い方が杜撰に思われました(逆に中心人物の描き方はあまりに素晴らしい)。その辺がなんというか、高校生が書いた下手な小説みたいな感じなんです、作家のご都合主義というか。だからそれさえ無ければ、もう諸手を上げて「傑作だ!」って叫びたい作品だったのですが...



山下敦弘『リアリズムの宿』

 最ッ高の83分間でした!もう笑えて笑えて仕方なかった。山下作品特有の「生々しさ」がそのままドストレートに「笑い」に直結していて、壮快極まりなかったです。もう語る言葉が「面白い!」に終止してしまうくらいの面白さです。
 また人物やカメラの動きのおかげで、「映像を見る事」の楽しさを再認識させてくれる映画でもありました。尾野真千子が最初に登場する浜辺の映像とか豪奢な写実絵画みたいです。
 この映画では子供がたくさん出て来たのも良かったです。これも山下作品の「リアルさ」を支える存在だと思います。"嘘"を持ち得ない存在をどれだけ映し込めるか。




 とりあえず以上です。あと今手元にあるDVDは
ソフィア・コッポラ『ロストイントランスレーション』
ポール・トーマス・アンダーソン『パンチドランク・ラブ』
パク・チャヌク『オールド・ボーイ』です。



ではまた。





【番外編】
ウェス・アンダーソン『Fantastic Mr.Fox』

 大好きな作品で、最近久しぶりにまた見てみました。
 うーん、初めて見た時は立ち上がって大声で叫びたくなるほどの感動、傑作感があったのですが、改めて見たら気になる所もままありました。フォックスの父親としての態度とか、社会を獲得していた動物達が野生へ回帰する必然性とか...
 でも僕がウェス・アンダーソン作品に惚れる切っ掛けとなった作品なので、これからまた何回か見て、要するに付き合って行きたいです。


【番外編2】
最近は栃木のロコドル、とちおとめ25がお気に入りです。


これ行きました。
初めて見たんですが、なんか昔のももクロを見ているようで涙出てしまいました...