2012年11月7日水曜日

風邪と映画3本Ⅱ ①周防正行『それでもボクはやってない』



 処方薬は昨日の朝の分で終わってしまい、その後「ちょっとぶり返してるのでは」な恐怖感(というか悪寒)が身体を襲いましたが、寝る前に安い栄養ドリンク(高い奴だと寝れなくなる)を飲むとかなり回復する事がわかり、やっと「もうそろそろ治る」ステージまで漕ぎ着けました。やっぱり人間身体が資本主義。健康が一番ですね。

 そんな中今日は周防正行『それでもボクはやってない』を見ました。風邪の治りかけの時に見る映画じゃなかったです(笑)。この映画についてインターネットで検索をかけてみると実際の弁護士の方などが多く感想などを書いていて、彼らは一様に「(ほぼ文句が無いくらい)リアルだ」と書いてます。
 ご周知の通り辛く苦しく、重い映画です。

 この痴漢冤罪映画の何が重いかと言えば、「物語」的な装飾が全然無いんですね。人間が大げさに傷ついてく様だとか、感情をドラマティックに爆発させるシーンなんかは描かない。ただ「現実的」な範囲内に起伏を納めて、至極論理的に話が進んで行く。"システムに人間が傷付けられる様"ではなくて、あくまで"人間を傷付けるシステム"自体を主体に描いている感じがします。それが重い。登場人物の素性や性格なども、裁判に関係無い部分は一切触れられません。
 だから「おおげさだなあ」と笑ったり、「悲しいお話だなあ」なんて感傷的にさせる部分がほとんど無くて、「こうなるとこうなってしまうのか」「こうしたけどこうなるのか」というリアルなロジックとそれ故の不条理ばかりを感じてしまうんです。自由な解釈とか想像力が付け入る隙がない。痴漢冤罪とは、日本の裁判とはこういう物なのだと完膚なきまでに打ち込まれます。
 
 この作品を見終わった後の途方に暮れる感じは凄いです。ドラマティックじゃないから、「ああ悲劇を見たなあ」なんて感想は得られない。では社会派でドキュメンタリチックな映画という事で、「じゃあ僕/私はこうしよう」なんていう風には簡単には思えない。相手は痴漢冤罪で、その地獄の不条理にいつ誰が落ちてしまうか解らない。なんとなく「気をつけよう」ぐらいにしか考えられない。この力は凄いです。誰しもが気にしなければいけない事なのに、どうすればいいか今一解らない(男性は常に両手で吊り革を掴めばそれで済むのか、女性は絶対に専用車両に乗るようにすべきなのか?)のに、いつ自分の身に降り掛かるか解らない災い。昨今「無関心」という言葉が取り沙汰されていましたが、この映画は人の「無関心」を強制的に剥奪する力を持っています。その力はもしかしたらドキュメンタリー作品よりも強いかもしれない。ドキュメンタリーは現実(実際に起こっている事)と物語(カメラが取捨選択する物、編集による演出)が拮抗する場でもあります。最初から(原案こそあれど)虚構であるならばそれ故の高い強度を持てるでしょう。

 
 だもんで「おすすめの映画です!」とか「面白くないなあ」みたいな事は全然言えなくて、痴漢冤罪で起訴されるとはどういう事か、それに興味がある人は見て然るべき。としか言えません。「この世の何処かで起こっている現実を観者の眼前に肉薄させる」という意味では園子温『冷たい熱帯魚』なんかも思い出しますが、あれの十数倍は傍にある地獄ですしね...。


 付け加えみたいになっちゃいますが、それにしても加瀬亮の演技が素晴らしかったですね。演出も手伝っているだろうけど、感情移入しまくっちゃうような善人でも、何かしでかしそうな悪人でもない。要するに「物凄く普通の青年」を演じ切ってる。それがまた身近さを感じさせて映画の怖さを増強させてますね。

 
 最近知り合いに「なんで辛い映画ばかり選んでんですか」と言われました。ただ「これ見たいな」と思った映画を選んでるだけだからそんなつもりは無いんですが(;´Д`)






2012年11月6日火曜日

風邪と映画3本 ③阪本順治『どついたるねん』


 風邪、治りかけのまま膠着状態です。今季の風邪は長引くとは聴いていましたが、もうそろそろウンザリですね。

 昨日は阪本順治の『どついたるねん』を見ました。普段スポーツはあまり興味ないしそういった映画も見ず、ボクシング映画は『ロッキー』すら見た事が無い僕ですが、かなり面白かったです。

 先ず余計な説明が一切無い。短いカットが鮮やかに繋がって行ったり長回しが続いたり、その快い抑揚が全てを物語ります。日本映画って妙に丁寧で説明的な映像を並べ立てる事がままありますが、この映画は全くそんな事はありません。それが見ていて非常に気持ち良い。安達英志(赤井英和)が相手の拳に倒れる。ドクターが来る。手術を受ける。その次のカットでは髪の間に手術跡が走る頭部、そして退院の準備を終えた英志の姿がある。パンッパンッパンッと最低限の情報が繋がれる事によって「何がどうなったか」という情報が力強くこちらの脳内に入ってくる。
 美川憲一演じる北山次郎がまた良い味を出していますね。男の世界であるボクシングをパトロンとしてオカマが支えている。なんてあまりに「まんま」な構図ですがやはり揺るがない耽美さと強度があります。

 この映画はよくあらすじとして「一度は再起不能になったボクサー安達英志が、元日本チャンピオンのコーチ左島牧雄(原田芳雄)との出会いをきっかけに、もう一度トレーニングを始め復活しカムバック戦を迎える」みたいな感じで書かれる事が多いです。確かにストーリーはこの通りです。しかしこの文章を一読すると「ドロップアウトからの復活」というシンプルな熱血ストーリーに思えるし僕もそういう映画なのだろうと思って見ていたのですが、終盤のカムバック戦、そしてラストシーンを見て、「そんな簡単な話じゃない!」と打撃を受けました。

 英志がカムバックし四回戦ボーイとして戦う最初の相手は、かつての後輩である清田さとる(大和武士)です。清田は英志の頭の怪我を良く知っておりそして深く心配していた男です。実際に試合が始まっても、清田は英志の顔を打つ事が出来ずボディばかりを狙います。一方英志に取って清田は後輩ですから、元々の実力は清田より上です。
 これって、映画の最重要シーンとしては結構複雑な事になってると思うんです。清田からすれば相手の弱みを知っているわけだから「頭を狙えば」勝って不思議は無い。英志からすれば元々の実力を持ってすれば清田に勝つのは至極当然。清田が勝てば「英志は怪我のおかげで当たり前に復活が出来なかった」という話になるし、英志が勝てば「普通に後輩に勝った」話になります。どちらに転んでもスッキリしない結末になると思うんです。そんなに悲劇的な「敗北」を描きたい映画だったのか。はたまた単純な「復活/勝利」を描きたい映画だったのか。

 試合後半、清田はついに英志の頭を打ちます。それまで明らかに優勢だった英志は一瞬で弱って行き、どんどん清田に打たれて行きます。だんだん意識が朦朧としていくなか、英志はボクサーになるのが憧れだった少年時代の自分に戻ります。リングの上で戦う少年の英志
と清田。その妄想は少年の凄まじいラッシュに清田が圧されている物ですが、現実は全くの逆で英志はひたすらに清田にパンチを打ち込まれています。この映像はあまりに凄絶で、まるで絶命寸前に見る夢のようです。
 英志の姿を見てもう限界だと感じたセコンドは、英志に禁じられていたタオルを投げ込みます。タオルが空中を舞い、レフェリーがそれを認めた瞬間、英志は渾身の左フックを清田の頬に叩き込み、清田はダウン(恐らく)します。ここで映像はストップし、そのままスタッフロールが流れ始め、映画は終わります。

 だから試合の結果が解らないのです。ギリギリで英志が清田からノックダウンを奪ったのか、投げ込まれたタオルによって英志はリタイア扱いとなったのか。ただ画面には清田をダウンに追い込んだ英志の広い背中だけが映し出されています。
 このラストシーンを見て、この映画は「敗北」を描いたのでも「勝利」を描いたのでも無いと確信しました。英志はずっと、ボクサーになる事を夢見た少年のままだった。本人が言う通り(「俺の身体の何処を切ってもボクシングしか出てけえへん。」)ボクシング以外何も知らない男だった。劇中、英志は男の背中の夢を何度か見ます。トレーナーを脱ぐと汗に濡れたたくましい背中が現れ、そこから湯気が立ち上っている。映画後半で、実はその背中は英志が少年時代に見た、一人のボクサーの背中だった事が思い出されます。それは英志に取って憧れの背中でした。
 ただ相手を「どつく」。それだけが英志の人生であり、この物語を前進させるエンジンでした。だからこの映画は敗北でも勝利でもなく、英志の「執念」を描いた作品です。意識が朦朧とする中執念の左フックを打ち込んだ英志の背中と、憧れていたボクサーの背中を重ねて見る事が出来るでしょう。


 前述した通り僕は他のボクシング映画は見た事はありませんが、ここまで「執念」を美しく描いているのは素晴らしいのではないでしょうか。荒戸源次郎から気になって見た作品でしたが、見て良かったです。面白かった!


 風邪が完治するまで「風邪と日本映画」週間を続けます。今日また3本借りました。
 ・北野武『HANA-BI』
 ・周防正行『それでもボクはやってない』
 ・小津安二郎『晩春』
 『HANA-BI』と『それでもボクはやってない』は人気で全然レンタル出来てなかったものなので楽しみです。



 あと一昨日、私立恵比寿中学「ウィンターデフスター極上ツアー2012-2013 〜KING OF GAKUGEEEEKAI of チュウ of LIFE〜」初日のららぽーと柏の葉に行ってきました!

 無銭エリアからでしたがかなりよく見えて、ライブも本当に素晴らしくて感動感涙でした。より一層エビ中が好きになったイベントでした。これからツアーが大変楽しみです。がんばりまやま!


 では。






2012年11月3日土曜日

風邪と映画3本 ②是枝裕和『幻の光』



 風邪、だいぶ良くなってきました。薬とTKGの力ですね。

 僕は是枝裕和監督の作品が本当に好きで、中でも『誰も知らない』や『歩いても 歩いても』は、好きな日本映画なに?と聴かれたら是非答えの中に入れたいと思う作品です。物語の起伏よりも、登場人物たちの「生きている挙動」が輝いて、それが素晴らしいんですよね。僕は「人間」を雑に扱う作品は好きじゃないし、是枝監督の人間の扱い方/描き方は愛して止みません。

 その是枝裕和の長編第一作目である『幻の光』を今日やっと見ました。
 僕が好きな諸作品と同じように、物語の起伏はあまり大きくありません。夫が謎の自殺を遂げ、その後再婚し都市部から沿岸部へと居を移す一人の女性の物語です。

 全体的に画面は暗く、自然光というよりも自然な陰に満たされています。音楽の存在感(出番は少ないですが)やカットの割り方など、少しだけ攻撃的というか意欲的に感じます。
 この映画で僕が印象的だったのは、特に沿岸部へと移り住んでからの周囲の自然の映し方があまりに美しい事と、登場人物が命そのもののように描かれている事です。
 水面に映る走る子供の影、トンネルの向こうの陽光と青い木々、海岸の岩肌から立ち上る火葬の煙・・・。どれもが自然の美しさをこれでもかと見せつけており、一瞬宮崎映画を見ているような気にすらなります。その自然の中を生きて行く登場人物達が、例えば社会性であるとか合理性みたいな物をあまり感じさせず、静かながらも感情や本能を主なエンジンに
して生きているように感じます。だから人間もプリミティブに描かれているわけで、それは背景の自然と同一化して、結果としてアニミズミックなノスタルジーを感じさせる映像になっているように思いました。
 そんな中主人公のゆみ子(江角マキコ)は過去のトラウマ(古くは認知症の祖母を助けられなかった事、そして夫を原因不明の自殺で亡くした事)に時折苛まれ、生命の不可思議について思い悩まされます。
 映画終盤で火葬の煙を眺めていたゆみ子は、再婚相手の民雄(内藤剛志)に発見され、夫が自殺した理由が解らない、あなたどう思う、と泣きながら問いかけます。すると民雄は、人は不意に光に誘われる事がある、と、半ば民話的なエピソードを持ってそれに答えます。ゆみ子が感じて来た「不可思議」は、"何だかわからない"という「自然の力」の中に回収されてしまうのです。だからこの映画はあまりに「自然」を描いていると僕には感じられました。


 『幻の光』という言葉が、原作小説(同名。宮本輝 著)の中で何を指していたのか、読んでいないので解りません。映画の中で出てくる印象的な「光」は、民雄が言う「人がふと(死に)誘われる光」です。だけど僕はそれが『幻の光』だとは感じませんでした。

 突然クラシック音楽の話になりますが、グスタフ・マーラーの交響曲第8番《千人の交響曲》の第2部 第4区分では、合唱隊が「すべて無常のものは 映像にほかならぬ。」と歌います。この「映像」を「光」に置き換えると「すべて無常のものは 光にほかならぬ。」となり、全ての事物は光であるという言葉になります。事実、全ての物は光が無ければ闇の中に埋没してしまい存在する事は出来ません。光があり影がある事によって、そこに事物として立ち現れる事が出来るのです。

 人間も含めた自然は正にそうです。そしてここで重要なのが「無常」という観念であり、全ての物は流転し姿を変えてゆくという事なんですよね。命は生まれそして消えて行く。それは人間の知恵や技術では抗う事の出来ない真の「自然」です。
 ゆみ子の祖母が失踪した事も、夫が謎の自殺を遂げた事も、今もこうして自分が生きているという事も、還元してしまえば「自然」な事なのです。特にこの映画はその「自然」を「自然」のままに描いていると思いました。そしてこの自然とは「光」の移り変わりであり、現れては消えてゆくそれは「幻」のようです。だからこの世のありとあらゆる全ては、「幻の光」である。僕はその言葉にそんな事を感じました。


 以降の是枝作品の心酔者からすると、このプリミティブさが物足りなさにも感じるのですが、是枝裕和はこの強靭な「自然」を根底に持っているからこそ、"その後に"立ち現れる人間の社会性や心情などをリアルに描く事が出来るのかもしれません。だからそういった意味では、是枝映画の原点として凄まじい強度を持っていると思います。単純に、長編第一作目にしてこの美学の完成度は驚嘆ものです。




 マーラーと言えばビスコンティの『ベニスに死す』が音楽がマーラーでしたが、あの映画はあまりにも"文学"で、映画じゃなくて本当に小説を読んでいる気持ちでした。原作はトマス・マンですが。同性愛(特に男性の)が美学の極地みたいな観念って、いつ頃からあるんでしょうか。
 『希望の国』も音楽でマーラーの10番を使っているみたいですね。早く見に行きたい!


2012年11月2日金曜日

風邪と邦画3本 ①熊切和嘉『海炭市叙景』


 風邪で自宅静養中です。今月1日に『希望の国』を見に行けなかった腹いせに邦画を3本借りてきました。

 熊切和嘉『海炭市叙景』
 是枝裕和『幻の光』
 阪本順治『どついたるねん』

 以上の3本です。今日は『海炭市叙景』を見ました。


 函館がモデルとなっている架空の都市"海炭市"に住む様々な人の日常を描いた作品です。その日常は、リストラされた貧しい兄妹や、家庭不和を抱える男や、立ち退きをせまられる一人暮らしの老婆など、決して幸せなものではありません。物語の構成としては、それぞれの日常はほとんどリンクしないままに並べられ、共に新年を迎える(中には他人のまま同じ山の上で初日の出を見ている者達もいる)という形です。
 映画はとしても静かで、特に前半の風景は息を呑むように美しいです。平面的でベタッとした夜景、色が同化しテクスチュアが際立つ曇り空の海と街。ジム・オルークの音楽も静かでちょっとひねくれており美しい象徴になっています。
 しかし登場人物達の抱える鬱屈が、その「何処にも行けない」ままの苦悩がかなり重たいです。扱われている問題としてはリストラやDVや独居老人など現代的でまま散見するテーマなのですが、それが物語の中で進展も後退もしないので、生々しさよりも固着した憂鬱の匂いが強くなっています。誰も海炭市から出られないままに、何も変わらない苦悩を過ごしていく。

 観ていて思い出したのは山下敦弘の『松ヶ根乱射事件』でした。あの映画も地方に於ける
閉鎖的な鬱屈を描いていました。ではその鬱屈を打ち破るような救い、もしくは更に鬱屈していく地獄の展開が『松ヶ根乱射事件』にあったかと言えば、無かったと思います。あの物語も結局は何も変わらないという虚無感がありました。

 だけどその虚無に対する登場人物の態度は全く違ったと思います。『松ヶ根乱射事件』は主人公は集落の水道に殺鼠剤を混入させるテロを企てたり、それが頓挫して遣る方ない怒りを銃弾に変えて何も無い場所(=虚無)に向けて乱射する。
 『海炭市叙景』では登場人物達はほぼ何もしていない。鬱屈を覆そうとする事も虚無を打ち破ろうとする事もしない。"映画がそうさせていない"ようにすらも感じます。時系列的には同じ時間を鬱々と過ごしたバラバラの登場人物達が、ほんの少しだけ邂逅して映画は終わる。

 ラストシーン近くの日の出(先述した通り、何人かの登場人物がここで他人のまま居合わせている)を、ある種の救い(鬱屈していた人々が、バラバラでいながらもそれぞれの新年を迎え、希望に向かって行く)と捉える傾向もあるみたいですが、あの日の出の直後に兄妹の兄である井川颯太(竹原ピストル)は遊歩道で帰る途中に滑落して亡くなってるんですよね。しかも「遺体が引っ掛かってて回収が困難なため、一度下へ落としてから回収する」なんていう無惨な状態になっているんです。

 その残酷な報を伝えているのが、海炭市で唯一の部外者であった浄水器業者の萩谷博(三浦誠己)が本州へ帰る為のフェリーの中にあった、テレビのニュース番組なんです。

 何を感じたかと言うと、全ての登場人物と接点は無いものの、この映画自体が萩谷博の地獄巡りに感じたんです。そして、実家がそこにありながらもそこを愛してはおらず、久しぶりに帰郷してもやはり良い事はなく地獄ばかりを目撃してきた萩谷が、東京へ帰る海の上で聴くのが井川颯太のニュースなんです。これは地獄巡りの総仕上げというか、地獄の門をくぐる時の恐怖の鐘の音のようではありませんか。これには登場人物の鬱屈に加えて、それを強制する映画の閉鎖的なサディズムを感じました。

 その後に、独居老人の、行方不明になっていた猫がふらっと帰ってくるラストシーンがあります。この猫が妊娠してるんです。老人はその腹を丹念に撫でながら(カメラも執拗にその手を映す)、生んで良い、全部育ててやると囁きます。地獄巡りが終わった後にこのシーンを観ると何か不安になるんですね。由来の解らない子供を孕んだ猫と、その出産と育成を助ける老婆。
 この子供が「新たなる諸問題」で、老婆がその問題達を育てる時間であり物語で、立ち退きを拒否する(=変わろうとしない)そのあばら家が海炭市そのものなのではないか。そういう物凄く後味の悪い象徴が読めてしまうと思うのですが、悪い意味で穿ち過ぎでしょうか。

 ちょっと疲れる映画でした。