2012年11月7日水曜日

風邪と映画3本Ⅱ ①周防正行『それでもボクはやってない』



 処方薬は昨日の朝の分で終わってしまい、その後「ちょっとぶり返してるのでは」な恐怖感(というか悪寒)が身体を襲いましたが、寝る前に安い栄養ドリンク(高い奴だと寝れなくなる)を飲むとかなり回復する事がわかり、やっと「もうそろそろ治る」ステージまで漕ぎ着けました。やっぱり人間身体が資本主義。健康が一番ですね。

 そんな中今日は周防正行『それでもボクはやってない』を見ました。風邪の治りかけの時に見る映画じゃなかったです(笑)。この映画についてインターネットで検索をかけてみると実際の弁護士の方などが多く感想などを書いていて、彼らは一様に「(ほぼ文句が無いくらい)リアルだ」と書いてます。
 ご周知の通り辛く苦しく、重い映画です。

 この痴漢冤罪映画の何が重いかと言えば、「物語」的な装飾が全然無いんですね。人間が大げさに傷ついてく様だとか、感情をドラマティックに爆発させるシーンなんかは描かない。ただ「現実的」な範囲内に起伏を納めて、至極論理的に話が進んで行く。"システムに人間が傷付けられる様"ではなくて、あくまで"人間を傷付けるシステム"自体を主体に描いている感じがします。それが重い。登場人物の素性や性格なども、裁判に関係無い部分は一切触れられません。
 だから「おおげさだなあ」と笑ったり、「悲しいお話だなあ」なんて感傷的にさせる部分がほとんど無くて、「こうなるとこうなってしまうのか」「こうしたけどこうなるのか」というリアルなロジックとそれ故の不条理ばかりを感じてしまうんです。自由な解釈とか想像力が付け入る隙がない。痴漢冤罪とは、日本の裁判とはこういう物なのだと完膚なきまでに打ち込まれます。
 
 この作品を見終わった後の途方に暮れる感じは凄いです。ドラマティックじゃないから、「ああ悲劇を見たなあ」なんて感想は得られない。では社会派でドキュメンタリチックな映画という事で、「じゃあ僕/私はこうしよう」なんていう風には簡単には思えない。相手は痴漢冤罪で、その地獄の不条理にいつ誰が落ちてしまうか解らない。なんとなく「気をつけよう」ぐらいにしか考えられない。この力は凄いです。誰しもが気にしなければいけない事なのに、どうすればいいか今一解らない(男性は常に両手で吊り革を掴めばそれで済むのか、女性は絶対に専用車両に乗るようにすべきなのか?)のに、いつ自分の身に降り掛かるか解らない災い。昨今「無関心」という言葉が取り沙汰されていましたが、この映画は人の「無関心」を強制的に剥奪する力を持っています。その力はもしかしたらドキュメンタリー作品よりも強いかもしれない。ドキュメンタリーは現実(実際に起こっている事)と物語(カメラが取捨選択する物、編集による演出)が拮抗する場でもあります。最初から(原案こそあれど)虚構であるならばそれ故の高い強度を持てるでしょう。

 
 だもんで「おすすめの映画です!」とか「面白くないなあ」みたいな事は全然言えなくて、痴漢冤罪で起訴されるとはどういう事か、それに興味がある人は見て然るべき。としか言えません。「この世の何処かで起こっている現実を観者の眼前に肉薄させる」という意味では園子温『冷たい熱帯魚』なんかも思い出しますが、あれの十数倍は傍にある地獄ですしね...。


 付け加えみたいになっちゃいますが、それにしても加瀬亮の演技が素晴らしかったですね。演出も手伝っているだろうけど、感情移入しまくっちゃうような善人でも、何かしでかしそうな悪人でもない。要するに「物凄く普通の青年」を演じ切ってる。それがまた身近さを感じさせて映画の怖さを増強させてますね。

 
 最近知り合いに「なんで辛い映画ばかり選んでんですか」と言われました。ただ「これ見たいな」と思った映画を選んでるだけだからそんなつもりは無いんですが(;´Д`)






2012年11月6日火曜日

風邪と映画3本 ③阪本順治『どついたるねん』


 風邪、治りかけのまま膠着状態です。今季の風邪は長引くとは聴いていましたが、もうそろそろウンザリですね。

 昨日は阪本順治の『どついたるねん』を見ました。普段スポーツはあまり興味ないしそういった映画も見ず、ボクシング映画は『ロッキー』すら見た事が無い僕ですが、かなり面白かったです。

 先ず余計な説明が一切無い。短いカットが鮮やかに繋がって行ったり長回しが続いたり、その快い抑揚が全てを物語ります。日本映画って妙に丁寧で説明的な映像を並べ立てる事がままありますが、この映画は全くそんな事はありません。それが見ていて非常に気持ち良い。安達英志(赤井英和)が相手の拳に倒れる。ドクターが来る。手術を受ける。その次のカットでは髪の間に手術跡が走る頭部、そして退院の準備を終えた英志の姿がある。パンッパンッパンッと最低限の情報が繋がれる事によって「何がどうなったか」という情報が力強くこちらの脳内に入ってくる。
 美川憲一演じる北山次郎がまた良い味を出していますね。男の世界であるボクシングをパトロンとしてオカマが支えている。なんてあまりに「まんま」な構図ですがやはり揺るがない耽美さと強度があります。

 この映画はよくあらすじとして「一度は再起不能になったボクサー安達英志が、元日本チャンピオンのコーチ左島牧雄(原田芳雄)との出会いをきっかけに、もう一度トレーニングを始め復活しカムバック戦を迎える」みたいな感じで書かれる事が多いです。確かにストーリーはこの通りです。しかしこの文章を一読すると「ドロップアウトからの復活」というシンプルな熱血ストーリーに思えるし僕もそういう映画なのだろうと思って見ていたのですが、終盤のカムバック戦、そしてラストシーンを見て、「そんな簡単な話じゃない!」と打撃を受けました。

 英志がカムバックし四回戦ボーイとして戦う最初の相手は、かつての後輩である清田さとる(大和武士)です。清田は英志の頭の怪我を良く知っておりそして深く心配していた男です。実際に試合が始まっても、清田は英志の顔を打つ事が出来ずボディばかりを狙います。一方英志に取って清田は後輩ですから、元々の実力は清田より上です。
 これって、映画の最重要シーンとしては結構複雑な事になってると思うんです。清田からすれば相手の弱みを知っているわけだから「頭を狙えば」勝って不思議は無い。英志からすれば元々の実力を持ってすれば清田に勝つのは至極当然。清田が勝てば「英志は怪我のおかげで当たり前に復活が出来なかった」という話になるし、英志が勝てば「普通に後輩に勝った」話になります。どちらに転んでもスッキリしない結末になると思うんです。そんなに悲劇的な「敗北」を描きたい映画だったのか。はたまた単純な「復活/勝利」を描きたい映画だったのか。

 試合後半、清田はついに英志の頭を打ちます。それまで明らかに優勢だった英志は一瞬で弱って行き、どんどん清田に打たれて行きます。だんだん意識が朦朧としていくなか、英志はボクサーになるのが憧れだった少年時代の自分に戻ります。リングの上で戦う少年の英志
と清田。その妄想は少年の凄まじいラッシュに清田が圧されている物ですが、現実は全くの逆で英志はひたすらに清田にパンチを打ち込まれています。この映像はあまりに凄絶で、まるで絶命寸前に見る夢のようです。
 英志の姿を見てもう限界だと感じたセコンドは、英志に禁じられていたタオルを投げ込みます。タオルが空中を舞い、レフェリーがそれを認めた瞬間、英志は渾身の左フックを清田の頬に叩き込み、清田はダウン(恐らく)します。ここで映像はストップし、そのままスタッフロールが流れ始め、映画は終わります。

 だから試合の結果が解らないのです。ギリギリで英志が清田からノックダウンを奪ったのか、投げ込まれたタオルによって英志はリタイア扱いとなったのか。ただ画面には清田をダウンに追い込んだ英志の広い背中だけが映し出されています。
 このラストシーンを見て、この映画は「敗北」を描いたのでも「勝利」を描いたのでも無いと確信しました。英志はずっと、ボクサーになる事を夢見た少年のままだった。本人が言う通り(「俺の身体の何処を切ってもボクシングしか出てけえへん。」)ボクシング以外何も知らない男だった。劇中、英志は男の背中の夢を何度か見ます。トレーナーを脱ぐと汗に濡れたたくましい背中が現れ、そこから湯気が立ち上っている。映画後半で、実はその背中は英志が少年時代に見た、一人のボクサーの背中だった事が思い出されます。それは英志に取って憧れの背中でした。
 ただ相手を「どつく」。それだけが英志の人生であり、この物語を前進させるエンジンでした。だからこの映画は敗北でも勝利でもなく、英志の「執念」を描いた作品です。意識が朦朧とする中執念の左フックを打ち込んだ英志の背中と、憧れていたボクサーの背中を重ねて見る事が出来るでしょう。


 前述した通り僕は他のボクシング映画は見た事はありませんが、ここまで「執念」を美しく描いているのは素晴らしいのではないでしょうか。荒戸源次郎から気になって見た作品でしたが、見て良かったです。面白かった!


 風邪が完治するまで「風邪と日本映画」週間を続けます。今日また3本借りました。
 ・北野武『HANA-BI』
 ・周防正行『それでもボクはやってない』
 ・小津安二郎『晩春』
 『HANA-BI』と『それでもボクはやってない』は人気で全然レンタル出来てなかったものなので楽しみです。



 あと一昨日、私立恵比寿中学「ウィンターデフスター極上ツアー2012-2013 〜KING OF GAKUGEEEEKAI of チュウ of LIFE〜」初日のららぽーと柏の葉に行ってきました!

 無銭エリアからでしたがかなりよく見えて、ライブも本当に素晴らしくて感動感涙でした。より一層エビ中が好きになったイベントでした。これからツアーが大変楽しみです。がんばりまやま!


 では。






2012年11月3日土曜日

風邪と映画3本 ②是枝裕和『幻の光』



 風邪、だいぶ良くなってきました。薬とTKGの力ですね。

 僕は是枝裕和監督の作品が本当に好きで、中でも『誰も知らない』や『歩いても 歩いても』は、好きな日本映画なに?と聴かれたら是非答えの中に入れたいと思う作品です。物語の起伏よりも、登場人物たちの「生きている挙動」が輝いて、それが素晴らしいんですよね。僕は「人間」を雑に扱う作品は好きじゃないし、是枝監督の人間の扱い方/描き方は愛して止みません。

 その是枝裕和の長編第一作目である『幻の光』を今日やっと見ました。
 僕が好きな諸作品と同じように、物語の起伏はあまり大きくありません。夫が謎の自殺を遂げ、その後再婚し都市部から沿岸部へと居を移す一人の女性の物語です。

 全体的に画面は暗く、自然光というよりも自然な陰に満たされています。音楽の存在感(出番は少ないですが)やカットの割り方など、少しだけ攻撃的というか意欲的に感じます。
 この映画で僕が印象的だったのは、特に沿岸部へと移り住んでからの周囲の自然の映し方があまりに美しい事と、登場人物が命そのもののように描かれている事です。
 水面に映る走る子供の影、トンネルの向こうの陽光と青い木々、海岸の岩肌から立ち上る火葬の煙・・・。どれもが自然の美しさをこれでもかと見せつけており、一瞬宮崎映画を見ているような気にすらなります。その自然の中を生きて行く登場人物達が、例えば社会性であるとか合理性みたいな物をあまり感じさせず、静かながらも感情や本能を主なエンジンに
して生きているように感じます。だから人間もプリミティブに描かれているわけで、それは背景の自然と同一化して、結果としてアニミズミックなノスタルジーを感じさせる映像になっているように思いました。
 そんな中主人公のゆみ子(江角マキコ)は過去のトラウマ(古くは認知症の祖母を助けられなかった事、そして夫を原因不明の自殺で亡くした事)に時折苛まれ、生命の不可思議について思い悩まされます。
 映画終盤で火葬の煙を眺めていたゆみ子は、再婚相手の民雄(内藤剛志)に発見され、夫が自殺した理由が解らない、あなたどう思う、と泣きながら問いかけます。すると民雄は、人は不意に光に誘われる事がある、と、半ば民話的なエピソードを持ってそれに答えます。ゆみ子が感じて来た「不可思議」は、"何だかわからない"という「自然の力」の中に回収されてしまうのです。だからこの映画はあまりに「自然」を描いていると僕には感じられました。


 『幻の光』という言葉が、原作小説(同名。宮本輝 著)の中で何を指していたのか、読んでいないので解りません。映画の中で出てくる印象的な「光」は、民雄が言う「人がふと(死に)誘われる光」です。だけど僕はそれが『幻の光』だとは感じませんでした。

 突然クラシック音楽の話になりますが、グスタフ・マーラーの交響曲第8番《千人の交響曲》の第2部 第4区分では、合唱隊が「すべて無常のものは 映像にほかならぬ。」と歌います。この「映像」を「光」に置き換えると「すべて無常のものは 光にほかならぬ。」となり、全ての事物は光であるという言葉になります。事実、全ての物は光が無ければ闇の中に埋没してしまい存在する事は出来ません。光があり影がある事によって、そこに事物として立ち現れる事が出来るのです。

 人間も含めた自然は正にそうです。そしてここで重要なのが「無常」という観念であり、全ての物は流転し姿を変えてゆくという事なんですよね。命は生まれそして消えて行く。それは人間の知恵や技術では抗う事の出来ない真の「自然」です。
 ゆみ子の祖母が失踪した事も、夫が謎の自殺を遂げた事も、今もこうして自分が生きているという事も、還元してしまえば「自然」な事なのです。特にこの映画はその「自然」を「自然」のままに描いていると思いました。そしてこの自然とは「光」の移り変わりであり、現れては消えてゆくそれは「幻」のようです。だからこの世のありとあらゆる全ては、「幻の光」である。僕はその言葉にそんな事を感じました。


 以降の是枝作品の心酔者からすると、このプリミティブさが物足りなさにも感じるのですが、是枝裕和はこの強靭な「自然」を根底に持っているからこそ、"その後に"立ち現れる人間の社会性や心情などをリアルに描く事が出来るのかもしれません。だからそういった意味では、是枝映画の原点として凄まじい強度を持っていると思います。単純に、長編第一作目にしてこの美学の完成度は驚嘆ものです。




 マーラーと言えばビスコンティの『ベニスに死す』が音楽がマーラーでしたが、あの映画はあまりにも"文学"で、映画じゃなくて本当に小説を読んでいる気持ちでした。原作はトマス・マンですが。同性愛(特に男性の)が美学の極地みたいな観念って、いつ頃からあるんでしょうか。
 『希望の国』も音楽でマーラーの10番を使っているみたいですね。早く見に行きたい!


2012年11月2日金曜日

風邪と邦画3本 ①熊切和嘉『海炭市叙景』


 風邪で自宅静養中です。今月1日に『希望の国』を見に行けなかった腹いせに邦画を3本借りてきました。

 熊切和嘉『海炭市叙景』
 是枝裕和『幻の光』
 阪本順治『どついたるねん』

 以上の3本です。今日は『海炭市叙景』を見ました。


 函館がモデルとなっている架空の都市"海炭市"に住む様々な人の日常を描いた作品です。その日常は、リストラされた貧しい兄妹や、家庭不和を抱える男や、立ち退きをせまられる一人暮らしの老婆など、決して幸せなものではありません。物語の構成としては、それぞれの日常はほとんどリンクしないままに並べられ、共に新年を迎える(中には他人のまま同じ山の上で初日の出を見ている者達もいる)という形です。
 映画はとしても静かで、特に前半の風景は息を呑むように美しいです。平面的でベタッとした夜景、色が同化しテクスチュアが際立つ曇り空の海と街。ジム・オルークの音楽も静かでちょっとひねくれており美しい象徴になっています。
 しかし登場人物達の抱える鬱屈が、その「何処にも行けない」ままの苦悩がかなり重たいです。扱われている問題としてはリストラやDVや独居老人など現代的でまま散見するテーマなのですが、それが物語の中で進展も後退もしないので、生々しさよりも固着した憂鬱の匂いが強くなっています。誰も海炭市から出られないままに、何も変わらない苦悩を過ごしていく。

 観ていて思い出したのは山下敦弘の『松ヶ根乱射事件』でした。あの映画も地方に於ける
閉鎖的な鬱屈を描いていました。ではその鬱屈を打ち破るような救い、もしくは更に鬱屈していく地獄の展開が『松ヶ根乱射事件』にあったかと言えば、無かったと思います。あの物語も結局は何も変わらないという虚無感がありました。

 だけどその虚無に対する登場人物の態度は全く違ったと思います。『松ヶ根乱射事件』は主人公は集落の水道に殺鼠剤を混入させるテロを企てたり、それが頓挫して遣る方ない怒りを銃弾に変えて何も無い場所(=虚無)に向けて乱射する。
 『海炭市叙景』では登場人物達はほぼ何もしていない。鬱屈を覆そうとする事も虚無を打ち破ろうとする事もしない。"映画がそうさせていない"ようにすらも感じます。時系列的には同じ時間を鬱々と過ごしたバラバラの登場人物達が、ほんの少しだけ邂逅して映画は終わる。

 ラストシーン近くの日の出(先述した通り、何人かの登場人物がここで他人のまま居合わせている)を、ある種の救い(鬱屈していた人々が、バラバラでいながらもそれぞれの新年を迎え、希望に向かって行く)と捉える傾向もあるみたいですが、あの日の出の直後に兄妹の兄である井川颯太(竹原ピストル)は遊歩道で帰る途中に滑落して亡くなってるんですよね。しかも「遺体が引っ掛かってて回収が困難なため、一度下へ落としてから回収する」なんていう無惨な状態になっているんです。

 その残酷な報を伝えているのが、海炭市で唯一の部外者であった浄水器業者の萩谷博(三浦誠己)が本州へ帰る為のフェリーの中にあった、テレビのニュース番組なんです。

 何を感じたかと言うと、全ての登場人物と接点は無いものの、この映画自体が萩谷博の地獄巡りに感じたんです。そして、実家がそこにありながらもそこを愛してはおらず、久しぶりに帰郷してもやはり良い事はなく地獄ばかりを目撃してきた萩谷が、東京へ帰る海の上で聴くのが井川颯太のニュースなんです。これは地獄巡りの総仕上げというか、地獄の門をくぐる時の恐怖の鐘の音のようではありませんか。これには登場人物の鬱屈に加えて、それを強制する映画の閉鎖的なサディズムを感じました。

 その後に、独居老人の、行方不明になっていた猫がふらっと帰ってくるラストシーンがあります。この猫が妊娠してるんです。老人はその腹を丹念に撫でながら(カメラも執拗にその手を映す)、生んで良い、全部育ててやると囁きます。地獄巡りが終わった後にこのシーンを観ると何か不安になるんですね。由来の解らない子供を孕んだ猫と、その出産と育成を助ける老婆。
 この子供が「新たなる諸問題」で、老婆がその問題達を育てる時間であり物語で、立ち退きを拒否する(=変わろうとしない)そのあばら家が海炭市そのものなのではないか。そういう物凄く後味の悪い象徴が読めてしまうと思うのですが、悪い意味で穿ち過ぎでしょうか。

 ちょっと疲れる映画でした。



2012年10月11日木曜日

このところ



 10/8、日比谷野音でDCPRGを見てきました。SIMI LAB、toeから最高でとにかく踊り狂いました。ちょっと飲み過ぎましたね、発狂レベルで楽しんできました。PA横で踊ってたらオムスビーツさんが走って来て一緒にぴょんぴょん飛んだのは良い思い出です。Playmate at hanoiで大儀見さんがシェケレで3&4に5をぶつけてきた所とかもかなり興奮しました。
 僕はDCPRGのライブはご多分に漏れず祭り(フェスって意味じゃなくて、儀礼としての祭り)だと思っていて、それも祝祭と言うよりは儀式的で呪術的というか、何か「祓い」の効力を持った祭りだと思っています。ともすればダンス・ミュージックというかダンサブルな現場(ここにアイドルも含めたいんですけどね)は簡易な祝祭に成り易いと思うのですが、祓いの力を持った祭りを現出させる音楽は希有で素晴らしい物だと思っています。※勿論素晴らしい祝祭としての現場もあるんですよ。

 10/10は池袋噴水広場で初めてモーニング娘。を見てきました。見てきましたというか、人が多すぎたので何とかかろうじてメンバーの顔だけ見れました、という感じでした。新曲の『ワクテカ take a chance』、カッコいいですよね、明らかにK-popに対抗せんとするハイクオリティなサウンド。ダンスもフォーメーションが技巧的でおっと思わされます。僕は広場フロアで見てたのですが、上のフロアから見てた友人はそのフォーメーションの巧みさをしかと垣間みたらしいですね。
 ライブ後は握手会をぼーっと眺めていたのですが、アイドルの握手会(とか2shot会とか)を見てるのって本当に飽きないんですよね。あー楽しそうとかあー変な人ーとか思ってる間にすぐに一時間とか経ってしまう。今回の握手会では変なピンチケ(悪い事しようとするクソな人の事です)が何かやらかして怖いスタッフに首根っこ掴まれて連れて行かれる所とか目撃してしまいました。アイドルは大変だ。。。


 今日は地元のTSUTAYAでDVDを三本借りてきました。

 ・深作欣二『仁義なき戦い 広島死闘篇』
 ・北野武『あの夏、いちばん静かな海』
 ・スタンリー・キューブリック『アイズワイドシャット』

 名作ばっかりですね。「地元のTSUTAYAの名作を借り切れ」が目標なので仕方ありません。もう少ししたら「クラシック」棚に攻め込みたいです。『天井桟敷の人々』とか『第三の男』とか見たいの一杯ありますからね。









2012年10月5日金曜日

のり巻きの歌とDVD三本と明日のスクリーン


 「のり巻きの歌を作らないか」というバカ話があり、そういうスーパーマーケットソングみたいなのも作ってみたいと予々思っていたので、サビだけなんですが昨日作編曲を済ませまして今日歌詞出しと歌入れを済ませました。歌は前山田健一のヒャダル子方式というか自分で歌ってピッチ上げてフォルマント変えた感じですね。のり巻きを愛でる歌なのに四つ打ちでシンセがブリブリ鳴って和声的にはラインクリシェとSDm使いまくり。で全くスーパーマーケット向けじゃなくなりました。


 このところTSUTAYAにあまり行ってなかったのですが数日前の台風の時に「悪天候と言えばレンタルビデオだ!」と思い立って(案の定店内超混んでまして、「降り出す前にさっさと借りてかえろう」計画だったのがレジで大層並んだおかげで降雨開始後の退店となりそれなりに濡れて帰りました)、地元板橋のTSUTAYAで三本借りて来てみました。

 ・深作欣二『仁義なき戦い』
 ・ルキノ・ヴィスコンティ『ベニスに死す』
 ・ジャン・リュック・ゴダール『気狂いピエロ』

 『気狂いピエロ』は十年ぶり・・・とまではいかなくても本当に久しぶりに観て、まるで初めて観たみたいに陶酔しきってしまいました。...と言っても初めて観た時はまだ芸術映画だのヌーヴェル・ヴァーグだの何にも解らなかった(いや今だって解ってないですけどね)のでこの映画の「何を追って観ていけばいいのか」が解らなくて途中で心此処にアラズになってしまった記憶があります。固定観念ほどつまらない物は無し。

 明日は十月六日、『アウトレイジ ビヨンド』封切りの日です。池袋で昼下がりの回を観てきます。今から、というか数日前から楽しみでなりませんでした。ゆっくり楽しむぞー!



 

2012年10月2日火曜日

BEYONDするギャングコメディ 北野武『アウトレイジ ビヨンド』

(※多分普通に【ネタバレ】ありだと思います)

 9/25、有楽町のよみうりホールにて『アウトレイジ ビヨンド』の一般試写を見てきました。よみうりホールは映画を見る環境としてはかなり悪いですね。上映中の飲食禁止に加え、映画が始まっても非常口のランプが消えません。場内が明るくて結構見にくいです。そんな事はどうでもいいとして、この映画があの(正に"暴力"的で)唐突な終幕を迎えてエンドロールが流れ始めた時、僕はかなりの衝撃を受けて身体が固まってしまいました。上映が終わり客電がついても、なかなか立ち上がる事が出来ませんでした。「うわーやってくれたよ北野武、快作じゃないかこれは」と打ちのめされた感じです。ちょっと意識が朦朧としたままに感想を書きたいと思います。


 前作『アウトレイジ』については以前の記事で『TAKESHIS'』『監督・ばんざい!』からの文脈で感想を書いたのですが(今思えば『アキレスと亀』について全く触れてなかったですね。観ていた事すら忘れていたという)、僕がこの作品について一番重要に感じているのは、「北野武の最も得意とする所であるヤクザ映画の、その戯画化」です。苦悩する北野武が俳優/スターとして、映画監督といて、芸術家としての自身を自嘲し破壊し(それに失敗し)、そして『アウトレイジ』に於いて徹底的に自身を突き放し客観的に再認識しそれを戯画化する事によって苦悩を超克した。という流れですね。

 その『アウトレイジ』の続編が一体どうなるのか、僕は全く予想が出来ませんでした。前作で苦悩は超克されたはずだし、これ以上何をする事があるのか。『アウトレイジ』はギャング映画としても普通に面白かったのだけれど、では単純にエンターテイメントとしての続編を出すのか。全くどういう態度で観ていいか解らないままに観て、結果的に打ちのめされたという訳です。「ビヨンド」は伊達じゃなかった。これは確かに『アウトレイジ2』なんかではなく、『アウトレイジ ビヨンド』です。


 物語は前作の五年後の世界を描いています。会長の加藤とその右腕石原により山王会は今や政界に通じるまで巨大な組織となっていた。刑事片岡は相変わらず裏でヤクザ達の動きをコントロールし、服役中だった大友を出所させチンピラとして燻っていた木村とタッグを組ませ、大阪の花菱会に強力を扇ぎ山王会に復讐をさせようとする。骨格となるストーリーは大体こんな感じです。
 僕は上記したようにかなり固唾を呑んで展開を見守っていたのですが、そこでかなり意外な事が起こったんですね。上映中、客席で何度と無く笑いが起こるんです。それも僕が知る限り、松本人志の『しんぼる』やコミカルなシーンも魅力の一つである『踊る大走査線』シリーズなんかよりも強烈な笑いが起こっていたかもしれない。僕は戸惑ってしまって、「えっ、今のそんなに笑う所?というか笑っていいのか?」とずっと思っていました。一時は「なんか変なお客さん達に紛れてしまったな」とまで本気で思いかけた程です。

 でも思いとどまって良かった。あまりに自分は緊張しすぎていたのかもしれない。そう思って、もう少しリラックスして観ていると、確かに「これは笑うしかないだろう」というシーンが連発されているんです。それも明らかなギャグがかまされている訳では決して無く、しっかりとギャング映画の展開の中で笑いを起こしているんです。それは片岡が服役中の大友に出所を促し山王会の実情を伝えた所での大友の「刑事がヤクザ焚き付けんのかよ!」というセリフだったり、いざ出所して活動し始めた大友が山王会の組員に不意に腹を撃たれ、その治療中に呟く「何かと腹ヤラれんな」(前作で刑務所の中で大友の脇腹を刺した木村を前にしながら)というセリフであったり、肩の力を抜いてみれば本当に「笑える」シーンが凄く多いのです。

 こんなに笑えるシーンが多発されているのに、映画としてはちゃんとシリアスなギャング映画の体裁が保たれていて、同時にコメディ映画としても機能出来る程に笑えるシーンがある。
 前作の「戯画化」とは、ヤクザを暴力的で合理性の欠けた子供じみた存在として描き出す事でしたが、『アウトレイジ ビヨンド』ではそれに輪をかけて子供っぽくなっているのです。加藤は何も出来ないままに威張り散らすだけだし、石原は出所した大友を怖れてギャーギャー騒ぎまくり(実際に対峙した時に恐怖のあまり失禁までしてしまう)、木村の子分二人は完全に馬鹿で可愛らしい箸休め的な脇役だし、大友のセリフ等も前作と比べて全然カッコ良くないんです。
 これは実はキャラクターだけでなく作品全体に言える事です。大友と組んだ木村が花菱会にその意気を見せるために自らの歯で小指を食いちぎる所など、「前作で大友側に無理矢理切らされそうになった指を、続編では大友のために自ら切り落とす」というかなり単純で熱血なシーンだと思うんです。そして大友達と組んだ花菱会の組員達が東京に乗り込んで次々と山王会系の事務所を急襲していくのですが、それがあまりに強すぎる。「あっけない」なんて言う間もなく一瞬でその場の組員を全員撃ち殺して颯爽と去ってしまう。大友達と組む前に花菱会の幹部が怒鳴っていた「山王会と戦争にでもなったらどう責任とるんじゃ!」というセリフは一体なんだったんだよ、超強いじゃねえかお前等。という感じなのです。これは観ていて僕はウルトラマンの格闘シーンを思い出しました。よく「殴ったりしないで最初っからスペシウム光線出せば勝てんじゃん」というツッコミが入りますよね。あれは本当に子供じみたツッコミで、物語の末のカタルシスであるとか、実はすぐに出せない理由があるのでは、という事は考えないんですね。それが実践されてしまってるのが花菱会の急襲シーンだと思うんです。あともう一つやはり触れておきたいのが、頭に被される黒い袋の存在です。前作では水野が頭に黒い袋を被らされ、車とロープを使った凄惨な殺され方をしますが、あのシーンはあの映画の中でも最も美しいシーンでファンも非常に多いです。今作でも虐殺の際に黒い布が使われるシーンがあるのですが、それが全く美しく無い。ただひたすらに殴られて死んだり、工業用ドリルで顔を突き抜かれたりして死んで行きます。前作を見ている者ならば黒い布が頭に被された時点であの水野の美しい死に様を想起する事は自明で、半ばその期待を裏切るようにして悪趣味で豪快な死に様が画面に広がります。「映画自体が豪快になった」事の象徴になっているのでは無いかと思います。工業用ドリルも歯科用ドリルをド派手に無骨にした感じですよね。

 繰り返しになりますが前作『アウトレイジ』に於ける子供っぽさとは、物語の中のヤクザの達、合理性に欠ける事であり、安易に暴力的で稚拙な事です。
 『アウトレイジ ビヨンド』はどうだったかを纏めれば、作品全体が構造的に子供っぽいんです。しかもそれが結果として「稚拙な映画」として終わっているかといえば決してそんな事はなく、シリアスなギャング映画を描きながらも(構造的に稚拙さを抱えているため)コメディ映画としても機能している。これが僕は素晴らしいと思いました。戯画化された『アウトレイジ』を再戯画化する事によって、遂にはコメディ映画の域にまで達してしまう。北野武は「苦悩を超克した」という一つの過渡期すらをも直ぐに「超克」=ビヨンドして、北野武のそもそもの領域である「笑い」に突入させてしまった。しかもそれが破壊による回帰ではなく再戯画化による洗練で行なわれた超越であるという点が凄い。『TAKESHIS'』等の破壊は内省的で過去の方向へと目を向けた物でしたが、『アウトレイジ』からの『アウトレイジ ビヨンド』ははっきりと未来へ向けて超越が行なわれている。
 『アウトレイジ ビヨンド』はさらに次の段階へと北野映画が「ビヨンド」していく、ギャングコメディ映画としての快作です。

 結末部分まで詳細に触れてしまうのが憚られるのですが(それだけあのラストシーンを僕が愛して止まないという事でしょう)、あの打撃力は凄かった。あれはハッキリ言ってアウトレイジという物語を一発で破壊する力を持っていました。無論この破壊は内省的な破壊ではなく、「これで終わりだ!次に向かうぞ!」という意思に溢れ返った破壊だと思います。暴力をメインテーマにした物語が物語中最強の暴力(最強というのは物理的に強いという意味じゃありませんよ。構築された構造を破壊する力強さ、単純明快さです)で美しく強烈に自壊して終結する。こんなもの見せられて震えが上がらない訳がない!


 という事で観てから数日経ったのにも関わらずまだ意識が朦朧としたまま書き殴ったわけですが、封切りの日にまた見に行こうと思っています。よみうりホールも環境良くなかったしね。
 もう一度観て全く感想が変わったらそれはそれで面白いですね(笑)。ではまた。



2012年9月6日木曜日

苦悩と超克 北野武『監督・ばんざい!』と『TAKESHIS'』、そして『アウトレイジ』


 映画好きな友人やバーの店員なんかと話をしていて、ふと気付くと「チャーリー・カウフマンの『脳内ニューヨーク』っていう、『8 1/2』に影響を受けたっていう作品が」とか、「『8 1/2』お好きなんですか?じゃあ、『NINE』は見ましたか?」とか、フェデリコ・フェリーニの『8 1/2』と関連性のある作品の話題になっている事があります。それほど『8 1/2』という作品が強い影響力を持っていて多くのフォロワーを生んでいるという事ですね。
 北野武の『監督・ばんざい!』もどうやらそうらしいと知り、先日TSUTAYAで借りて来て、観てみました。この作品が気になったのは菊地成孔の映画本での以下の一節からでした。

 
 「再び、映画というメディアは、『8 1/2』以来、「芸術的な映画」は「芸術家である監督」の内面を、壁画のように総て曝け出さねばならない。といった、ちょっとした無言の強制力を持ち続けている。そして、この強制力に最も簡単に屈してしまうのが、娯楽作専門の職業監督ではなく、「芸術家志向」の、しかも「芸術映画の失敗」に免疫のない「他業種監督」なのは言うまでもないだろう。北野武が『監督・ばんざい!』で「オイラなりの『8 1/2』を考えたんだよね」と言う時、この強制力は我が国での最高値を記録するのである。」(菊地成孔『ユングのサウンドトラック』)



 『8 1/2』のストーリーの軸は「思うように撮影が出来ていないにも関わらず、映画の製作が進んで行ってしまう映画監督の苦悩」です。とても美しく幻想的で夢のような作品ですが、突詰めると苦悩(とそれに伴う焦燥)の映画なんですね。
 果たして『監督・ばんざい!』も苦悩の映画でした。冒頭から中盤にかけてまで懇切丁寧に映画監督北野武の苦悩と迷走が描かれます。そこから映画は急激にシフトチェンジして躁状態に陥ったかの如くめちゃくちゃな物語が展開され、何が何だか解らないままに小惑星の衝突により地球が破滅して104分のこの短い作品は終わります。
 この作品を見ていて、北野監督が「『8 1/2』を考えた」というのは、映画監督の苦悩(『8 1/2』では「決定出来ない」苦悩が主でしたが、『監督・ばんざい!』では寧ろ「強力な決定権がある事」が苦悩として描かれています)を軸にして、自分自身の脳内にある様々なファクター(馬鹿馬鹿しいコメディ、国際情勢、政治、暴力、記憶etc)を曝け出して奔放に彩り、幻覚的な作品を作ろうとした。そんな事だったのではないかと感じられました。だから作品の構造としては『8 1/2』と同じなのでは無いかと思います。

 ですが構造が同じだから同じように映画として素晴らしいかと言えば、無論そんな事はありません。
 北野武の苦悩は、あまりに人間的で生々しい。観ていると「もう嫌だ、何もかも投げ出したい!」という声が、画面からではなくスクリーンの向こう側の北野武本人の口から聴こえてくるようです。苦悩の末にさんざん好き勝手やって、それを自覚しながら最終的に全てを破壊して「監督ばんざい!」とテロップが出てくるラストシーンなど、ほとんどヒステリーの大爆発のようです。
 『8 1/2』の苦悩はその苦悩自体が映画の中でとても美しく、そして遂には死後の悟りと祝祭にまで物語が及ぶ事によって全てが素晴らしい映像作品へと「昇華」しているように感じられます。しかし『監督・ばんざい!』の爆発は決して昇華などではなく、幼稚で単純な「破壊」であり、諦めであり打ち捨てにしか感じられませんでした。要するに、観終わって「北野武も世界のキタノとか言われて、色々苦しいんだなあ」みたいな、まるで親みたいな目線の感想が出て来てしまうのです。




 実はこの感想は『TAKESHIS'』を観た時にも感じたものでした。この作品も軸には「苦悩」があって、その苦悩は人間・北野武と、スター・北野武という二つの人格が乖離して統合出来なくなってしまう。というもので、これもまた北野映画的な独特な世界観に彩られてはいるのですがその苦悩が生々しく肉声的で、「ああ、北野武もやっぱりこういう事で悩むんだなあ、人間だなあ」と率直にそればっかり感じてしまいました。だから映画として面白かったかと訊かれれば頷けないし、今思い返してもしっかりと内容を思い返せません。
 第30回モスクワ映画祭でのインタビューで北野監督は、『TAKESHIS'』と『監督・ばんざい!』、この二つの作品を「自分が一番沈んだ最低の時に制作した映画だ」と語ったらしいですが、本当にそうなんだろうなぁと少しだけ微笑んでしまいます。




 しかしこのあまりに肉声的な苦悩は、『アウトレイジ』で思い切り解消されているように感じました。上述した二作はうじうじと過去の作品に言及したり苦悩を解りやすく且つ奇怪に描き出す事に執心しており「ぐだぐだで中途半端なメタ感」がありましたが、『アウトレイジ』ではキッパリと高次のメタ領域に踏み込んでいると感じました。

 とあるラジオ番組で、聴視者からおすぎの「『アウトレイジ』批判」に対する苦言が投稿として寄せられていました。そのおすぎの批判はどういった物だったかというと、「豪華な俳優陣を集めて幼稚なヤクザごっこをしているようにしか見えない」といった内容でした。おすぎはこれを「批判」として言ったわけですが、実はこの"「ごっこ」という指摘自体"は僕は正しいと思っています。『アウトレイジ』は確かに「豪華な俳優陣を集めて幼稚なヤクザごっこをしている作品」です。だから良い。だからこそ北野映画としてメタ作品になっているのです(後述します)。おすぎがダメだったのはこれを即座に批判的に捉えた所で、北野武はこれまでも良質なギャング映画を撮っており(『ソナチネ』とか素晴らしいですよね)、それらは決して「ごっこ」の作品ではなく、ギャングの世界を通してしっかりと生と死の美しさが描かれていたんですね。では"何故今、北野武は「ごっこ」めいたギャング映画を撮ったのか?"というズブの素人でも容易に思い当たる疑問を、おすぎは獲得する事が出来なかった。これがおすぎの『アウトレイジ』批判に於ける最大の失敗であり、映画評論家としての信用はやはり皆無なのだと言う事を改めて教えてくれる失態であると思います。

 『アウトレイジ』に登場するヤクザ達はどれも皆非常に子供っぽい事が見て取れます。それにセリフも「バカヤロー」だの「コノヤロー」だのばかりで非常に稚拙です。象徴的な会話として、大友が池本を殺そうとするシーンでの「舌出せ、何枚も持ってんだろ」「舌は一枚しか無えよ」という物が挙げられると思います。二枚舌、三枚舌という慣用句を知らないという、登場人物の子供っぽさを強調するシーンです。
 これはヤクザ世界というものを、今までのように生と死の視点からポエティックに描き出すのではなく、「戯画的に再認識して描き直している」と考えられます。ギャングというのは殴ったり蹴ったり怒鳴り散らしたり、野蛮で合理性に欠けた(これも石原の駐日大使に対する「俺たちがヤクザだって事、忘れてねえよな?」というセリフに象徴されます)子供のような存在なのではないか?そういった視点でこの映画は撮られていると思います。だから「ごっこ」に見えるし、豪華な俳優陣を用意する事により「粉飾」の匂いさえ漂わせています。

 北野武にとってやはりギャング/暴力映画というのは非常に得意なジャンルであり、尚かつ名作が幾つも残っている物です。それを戯画的、皮肉ったような感じで描き直す(それも懐古的でも自省的でもなく潔く完璧にやっている)事自体が、キッパリと高次のメタ領域へ移行した事を感じさせます。あと個人的に「バカヤロー」や「コノヤロー」の連発というのも重要なのでは無いかと思っていて(笑ってしまうくらいにバカヤローコノヤロー言ってるんですよねこの映画)、人が北野武というかコメディアンとしてのビートたけしのモノマネをする時に、首をくいくい曲げながら「ダンカンこのやろう」とか「ダンカンばかやろう」と言う事が多いですよね。なので世間的に「バカヤロー/コノヤロー」といった言葉がビートたけしの象徴的なセリフとして認識されていると思います(それも北野武本人も解っているでしょう)。そんなセリフを映画の中で過剰な程に使う事。これも北野武が自分自身(コメディアン・ビートたけしを含めた)を再認識し、半ば自嘲的に捉え直している事を証明しているのでは無いかと思います。しかもこれが『アウトレイジ』という映画の中で行なわれるから、自身の再認識として機能すると同時にヤクザの「子供っぽさ」を助長する演出にもなっているのだから、見事と言う他ありません。

 『アウトレイジ』によって北野武は、抱えていた苦悩を総括して超克し、ひとつ高次の段階へ進む事が出来たのではないでしょうか。『監督・ばんざい!』や『TAKESHIS'』のように、『8 1/2』を意識して「苦悩/内面を吐露し、破壊を通じて昇華を目指す」のではなく、『アウトレイジ』によって自己を再認識し「強烈な暴力と共に笑い飛ばしてしまう」。これこそが北野武の苦悩を本当に解消出来る術だったのでしょう。

 だから僕は『アウトレイジ』が勿論ギャング映画としても大好きだし、北野作品としても愛して止みません。

 来月公開される続編『アウトレイジ ビヨンド』について、北野監督は「エンターテイメントとして撮った」と明言しています(ミヤネ屋で見た)。またベネチア国際映画祭で作品を観た現地の人は「とても洗練された映画。ただテーマが難解だった」「とても美しい、日本のアニメのような作品」「暴力ばかりの映画で不快だった」と感想を言ってました(これもミヤネ屋で見た)。
 果たして「ビヨンド」とは何を意味するのか(もしくは意味しないのか)、どんな面白い作品になっているか、大変楽しみですね。





2012年9月4日火曜日

新学期スタート(日本の夏、私立恵比寿中学の夏。)



 九月初旬ですね。やっとこさ「これぞ残暑」感が出て来ましたね。

 この夏が自分にどんな夏だったか、ちょっとスケジュール帳を見返してみて考えてみようと思ったんですが、どうにもこうにもエビ中(私立恵比寿中学)の夏だったとしか言えないような感じがしています。と言ってもエビ中だけ行ってたわけでも無いので、この夏に僕が行ったアイドル現場を整理してみたいと思います。


7/20 飲酒運転させないTOKYOキャンペーン at 恵比寿ガーデンプレイス
    ※私立恵比寿中学ゲスト
7/22 私立恵比寿中学 at 東京ドームシティ ラクーアガーデンステージ
8/05 ももいろクローバーZ at 西武ドーム
8/06 ひめキュンフルーツ缶 at 池袋サンシャインシティ ショッピングセンターアルパ B1噴水広場
    ※三曲くらいのチラ見
8/09 Berryz工房 at 魁!音楽番付 LIVE フジテレビお台場合衆国NEXT!ステージ
8/14 S/mileage at 汐留AX
8/19 私立恵比寿中学 at クイーンズスクエア横浜 1F クイーンズサークル
8/26 私立恵比寿中学 at 東京ドームシティ ラクーアガーデンステージ
8/27 アップアップガールズ(仮) at 汐留AX
8/30 私立恵比寿中学 at MEGA WEB トヨタ シティショウケース
9/01 私立恵比寿中学 at 池袋サンシャインシティ ショッピングセンターアルパ B1噴水広場
9/02 私立恵比寿中学 at 東京ドームシティ ラクーアガーデンステージ


 といった具合ですね。何でエビ中が多いかと言うとG.W.もそうでしたが無料ツアーをばっしばしやってくれていたからですね。
 エビ中はメジャーデビュー曲『仮契約のシンデレラ』から楽曲にしろパフォーマンスにしろが断絶的と言っていい程にガシッとクオリティが上がって、目が離せない感じになってきていたので、行ける現場は行けるようにしていました。非常に楽しかったです。
 今回の新曲群の中ではシンプル枠で『大人はわかってくれない』、技巧的枠で『ほぼブラジル』がとんでもない名曲です。前者はどストレートなガールズメロコア、後者は岡村靖幸やコモリタミノルのようなファンキーで凝った進行の90's的ポップス。エビ中の歌声/パフォーマンスとのマリアージュが凄くて涙が止まりません。エビ中は今楽曲もとんでもなく良いし現場の規模も丁度良い感じで(と言っても夏の初めと終わりでは結構動員数増えてましたが)、今年の夏を回数的な多さで彩ってくれたのは本当にエビ中だったなと思います。毎回毎回凄く楽しかった。ライブ後のイベントに初めて参加して良い思い出もできた。超踊ったし、凄く笑って結構泣いた。本当にこの夏はエビ中に感謝しています。マジでありがとう、ホント楽しかった。
 ちなみにエビ中の推しメンは真山りかさんです。めちゃくちゃ好きです。

 あと書いておきたいのはやっぱりアップアップガールズ(仮)ですね。夏の初めに『アッパーカット!』という曲をyoutubeで見て衝撃を受けまして(曲のクオリティと、彼女達のパフォーマンスの迫力で)、行ける機会があれば絶対に見てみたいと思っていた所で汐留AX出演を知ったので、すぐにチケットを買いました。
 セットリストの半分以上が初披露の新曲というなかなかハードな現場でしたが、そんな事忘れらせるくらいに良かったです。もう最高、感動しました。ハロプロで修行した人達はやっぱり基礎的な技術の底がとても高いですね。何よりこの日は『マーブルヒーロー』『アッパーカット!』そして『バレバレI LOVE YOU』と好きな曲をやってくれたのでそれだけでもう感涙。生で見る『バレバレI LOVE YOU』は凄かったですね、「振り付け及びフォーメーション」という物にこれだけ感動したのは久しぶりかもしれない。そして関根梓さんが大層好きになりました。9/02のワンマンとかは行けなかったのですが、また行けるチャンスがあったらアプガは行きたいです。人気もうなぎ登りっぽいのでまた何処かで見れるだろうな。

 上述した以外でも色々書きたいのですが(ももクロの西武ドームも楽しかったし、スマイレージも感動したし)、ぐだぐだ書きすぎになりそうなのでこの辺でやめます。

 ちなみに上の写真は9/02に国立近代美術館で行なわれた大友良英主催の『one day ensembles』で撮った物です。外で演奏する大友さんとガラス越しの室内で寝ながら演奏するテニスコーツの植野さん。こういったフリーな雰囲気で、色々な場所で様々な演奏がなされる非常に刺激的で楽しいイベントでした。アイドルの事ばかり書いてないでこういうイベントの事もちゃんと書きたいですね。

おやすみなさい。


追伸:
今日は新宿TSUTAYAで
テオ・アンゲロプロス『シテール島への船出』
デヴィッド・リンチ『インランド・エンパイア』
北野武『監督・ばんざい!』
井上剛『その街のこども』
を借りてきました。



2012年8月26日日曜日

酷暑と連詩


 もうこの写真からも嫌という程伝わってくる熱気。残暑が厳しいなんてもんじゃないですね、酷暑がいつまで経っても終わりません。信号も赤信号だし。どうなってんですかね。

 僕は季刊26時という現代詩の同人誌に所属しておりまして、昨日はクソ暑い中「紀行連枝」という企画でとある街中をぶらつきながら折々詩を書いて行く、というのをやりました。今回の舞台は谷根千。
 連詩というのは、複数の執筆者がリレー形式で詩を書いて行く形態を言います。前の人が書いた詩、これまでの流れを見た上で自分がどう書くか、という事が重要になりますので、セッション性、即興性が立ち現れる詩の形です。一人で書くのと違い触発されたり仕掛けたりという事が出来るので面白いですよ。


 谷川俊太郎、四元康祐、伊藤比呂美、覚和歌子、ジェローム・ローセンバーグらによる熊本連詩2010


2012年8月24日金曜日

ジョン・カサヴェテス『こわれゆく女』/本広克行『踊る大走査線 THE FINAL 新たなる希望』


 一昨日、吉祥寺バウスシアターにてジョン・カサヴェテス『こわれゆく女』を観てきました。出来ればタイムテーブル的にその次の時間に上映される『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』も続けて見たかったのですが、完全入れ替え制だったので断念した次第です(「金欠は生活から文化を遠ざける」という金言が心にグサグサ刺さります)。

 初めて見るカサヴェテス作品でしたが、何とも言いがたいというか、単純に面白かった/つまらなかったっていう表層的な感想を撥ね除けて、「俺は今一体何を観たのだろう」という複雑な想いで一杯になりました。
 別段話が難解という事は無いんです。病に冒された(恐らくは統合失調や躁病などの精神疾患と思われる)妻と、その妻を愛し家庭を存続させようと尽力する夫の物語。根幹となる物語自体はシンプルなんですけど、シンプルな根幹を様々な枝葉が浸食し、引き延ばし、混濁させ、一体何が正しいのか、何が良くて何が悪いのか、天国なのか地獄なのか、かなり混乱させられてしまうんですね。
 でも見終わって家に帰って飯を食って寝て仕事に行って、という時間を過ごしているうちに、段々とこの作品から溢れ出てくる「愛」を強く感じてきました。とにかく愛で埋め尽くされている。それはピュアで劇的な愛ばかりではなくて、性愛であったり愛着であったり自己愛であったり偏愛であったり、歪んだ形の愛までもが提示される。
 映画終盤、妻メイベルが精神病棟から退院してきてから、メイベルが精神に異常を来した理由として夫ニックの言動があったという事が明るみになる、という見方が多いみたいですが、では映画の中でニックが「妻を発狂に追いやった大悪人」なのかと言えば、必ずしもそうは思えない。ニックにも確かな愛がある。確かに身勝手な愛(それはメイベルへの愛だけでなく理想とする家庭像への執着としての愛もある)で、オーバードライブした結果「妻も子供も殺す」というとんでもない発言までするのだけれど、最後は妻メイベルと非常に仲睦まじい夜を迎えて映画は終わる。これは一例ですが、そういった風に様々な、一見するとエグく見えるような物も含めて、「愛」に溢れているの映画なのではと思いました。
 めちゃくちゃな事態が重なりに重なった後のラストシーン、ニックとメイベルが一緒に食卓を片付け、ベッドメイクをし、そしてニックが家の照明を一部屋一部屋微笑みながら消してメイベルの待つベッドシーンへ向かって行き、薄いカーテン越しに二人が抱擁している様が見える。という映像など、一組の男女の愛を映した物として、あまりにも美しかったです。さっきまであんなとんでもない事になってたのに、と愕然とするほどです。

 今自分で何となくですが感じているのは、『こわれゆく女』という映画の魅力を、恐らく自分は理解しきれていないだろうという事です。多分これから数年後、三年後だったり五年後がったり十年後だったり、見返した時に新たにその深い魅力に気付けるような気がします。そんな気がします。というか、そんな気にさせてくれた作品でした。観に行って良かったです。
 『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』は残念ながら期間中に観れそうにないので、どこかで又かかるのを待つかTSUTAYAでVHS借ります。





 で昨日はと言うと、知人が"踊る"シリーズの完結作『踊る大走査線 THE FINAL 新たなる希望』の完成披露試写会のチケットを抽選で当てまして、それに一緒に行ってきました。会場は有楽町は国際フォーラムのホールAです。国際フォーラムに来るのなんて本当に久しぶり。完成披露試写会なので舞台挨拶がありまして、織田裕二を始め主要キャストが舞台上に現れて挨拶などしてくれました。

 『踊る大走査線』がテレビドラマとしてスタートし、そして第一作目の映画が公開された時、僕は未だ小学生でした。実はその頃熱心に観てたんですね。なのでそのまま流れと言うか、『踊る大走査線』の映画はこれまで欠かさず観て来てたんです(スピンオフ作品とかは全然観てないんですけど)。だからずっと観て来たという意味に於いては実は愛着があるシリーズなんですね。
 そして今回のシリーズ最終作を観るに当たって、僕が一番気にしたのは一つの映画作品として面白いかどうかよりも、「湾岸署の物語を一体どう終結させるのか」という点でした(それだけと言っても過言ではない)。今回で映画は四作目になりますが、それを期待させるような流れが出来ていたと個人的に思っていたんです。

 映画一作目、面白かったです(もうずっと観てないですが)。
 二作目は「前作と同じフォーマットを続けるのはどうなの」と興醒めしました。論外。
 三作目、これが個人的に結構重要でした。これは『踊る大走査線』というフィクションの物語がフィクションとしてのアイデンティティを再獲得するために奔走してる作品で(現実にお台場に「警視庁湾岸警察署」が設置された事が多いに関係してると思ってます)、それが故に全体的にクサすぎてエンタメ作品としても面白くないのですが、作品の中での重要トピックである「湾岸署の引っ越し」=新たに"湾岸署を再獲得"する、そのためだけの映画だったと思っています。だから面白くなくてもまあ仕方ない(とも言える)。

 そして四作目。「真の新しい湾岸署の物語が始まり、そして終わる」と思って期待した上で観ました。
 四作目、個人的には良かったです。作品のエンターテイメントとしての面白さとかは、その辺ではトンデモさとか納得しにくい部分も多々あったのですが、それはこの際話の外に置いておきたいです。

 劇場公開前に【ネタバレ】気にせず書いちゃうんですけど、今作ではゾッとするくらいに湾岸署の物語が破滅の危機を迎えます。それも隠れた所に潜んでいた火種によって。
 すみれさんは映画二作目で受けた銃撃の後遺症(の悪化)によって辞職を決意し、警察上層部の権力とこれまでずっと戦って来た室井と青島は上層部の隠蔽工作に巻き込まれて辞職に追い込まれ、キャリアとしての階段を着実に昇って来た真下の、過去に下したキリャア故の厳しい判断が引き金となり陰惨な事件が引き起こされ自身の息子が誘拐され・・・と、かなり悲惨な自体が起きます。かなり暗澹としています、絶望です。
 ですがこの絶望的な表層を支えている裏側がかなり複雑な事になっていて、結果的にはこの絶望が炸裂するように解決し、全ての危機は回避され、室井を中心とする警察組織を抜本的に改革していくための委員会が設置されたりして、希望に溢れたラストを迎えます。

 このラストは、青島と室井、要するに『踊る大走査線』という物語がずっと抱えていた問題である「あまりに政治的である上層部と理解されない末端の現場」が解決される方向にドラマが遂に動いた訳で、シリーズ最終作としてとても相応しい結末ですし、それがあの強烈な"破滅と絶望"を乗り越えた末に劇的にやって来る結末なので、カタルシスに近い感覚があります。

 なのでこれまで"踊る"の映画を観て来た一ファンとしては、見終わって「こうやって終わってくれてよかったな」という安心にも似た気持ちでした。

 でもですね、さっき話の外に置いてとか何とか書きましたが、映画作品としてはどうなのかなと思う事もやっぱりあります。トンデモな場面とかがあるのは未だエンタメ作品として仕方ないとして、「裏側がかなり複雑」と書きましたが、本当に複雑です。というか実は異様に入り組んでいるという程ではないのだけれど、バラしの場面が非常に少ないので、観る人によっては訳が解らない映画になってると思います。
 僕もちゃんと構造を把握出来たのかちょっと不安なのですが・・・、鳥飼が警察組織を改革したいがために、真下の過去の"厳しい判断"によって傷つき恨みを持った警察職員をそそのかして事件を起こさせ、それは要するに現役の警官に寄る殺人事件であるために上層部はそれを隠蔽しようとし、その必然的に現れた隠蔽を鳥飼が告発する。という事で、合ってたんでしょうか、僕はそう読みました。結構複雑ですよね。この裏の構造に表層の青島などのキャラクターが翻弄されていくのだから、また読みにくくなります。
 この複雑な構造は、「やったー!踊るの新作だー!」と楽しみワクワクで観に行く感じのお客さんには伝わらないんじゃないかと思います。解りやすくてハデなエンタメ部分だけを楽しんで、後は「よくわかんなかったけど良かったかな」みたいな感想になっちゃうんじゃないかと思います。それってもしかして、シリーズ最終作としては良くないのかな・・・?
 最終作という事で脚本が意気込みすぎていたのかもしれませんね。もしかしたらもうちょっと水増しして解りやすい場面とか増やしたら映画二本分とかになったかもしれない。


 今日は仕事終わってから髪を切りに行きます。夜はたぶん普通に出かけるので、それまでにこの前テレビで録画した『大鹿村騒動記』を見れたら見たいですね。


 なんか映画の事ばっかり書いててシネフィルみたいでアレというかただの映画ファンのブログみたいになってますが、僕の本業は音楽、副業は現代詩です。その辺の話も出来る時はしたいです。

2012年8月20日月曜日

私立恵比寿中学/小津安二郎『東京物語』




 昨日は横浜クイーンズスクエアで私立恵比寿中学のライブを見てきました。ぁぃぁぃの歌声が冴えてましたねー、真山のパフォーマンス/アピールも最高だった。りななんの聖誕祭もとっても素敵で可愛らしかった。夜は渋谷でハイボールを0.7ガロンくらい飲みました。近いうちにアップアップガールズ(仮)のライブにも初めて行けそうなので楽しみ!

 で今日は仕事が終わった後に吉祥寺バウスシアターのカサヴェテス週間に行こうかと思ったのですが(『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』と『こわれゆく女』が目当て)今月から来月上旬の予定を考えて後日に回しまして、部屋で小津安二郎『東京物語』を見ていました。二時間心の涙腺が決壊しっぱなし。なんて言うか個人的な諸々の想いが強く喚起されすぎて、「良い作品だ」と思う気持ちより先に嬉しいんやら憂鬱なんやらで訳が分からなくなって、こりゃ一旦冷静にならないとと思って北池袋のドンキホーテに買い物に行きました。外人ばっかりいて気が滅入りました。
 ともかく『東京物語』、初めて見た小津安二郎作品でしたがとても静かで暖かくも寂しい映画でした。大変な魅力なのが、主人公である老夫婦の物語が、寂しいながら幸せな物なのか、不幸な物なのか、非常に微妙で解りにくい所ですね。全体的に見たら「寂しくて不幸」に見えるんだけど、でも絶望ばかりではないし、劇中で登場する「お前ですら不満だ」とか「私達は全然良い方」というセリフが、皮肉めいて聴こえるようなでも本当に幸福の裏打ちになってるような、凄く微妙なんですよね。それがむしろ生々しくて、人生が幸福だったか不幸だったか、そんなもん客観的に決定出来ないよなと思わされました。古典の名作に今更こんなコメントするのも憚られますが・・・。人間を描く映画として、久々に『歩いても 歩いても』とか観たいですね。



限界的状況と詩 園子温『ヒミズ』


 先月だか先々月、居酒屋で食べたサーモン刺しが当たってエラい目に遭ったのだけど、その日は居酒屋に行く前に何をしていたかというと早稲田松竹で園子温『ヒミズ』を見ていた。劇場で公開された時に二回見に行っていたから、スクリーンで見るのはそれが三回目。

 映画監督の自作についてのインタビューを読む機会はあまり無いのだけど、殊園子温監督のインタビューはどのレビューよりも面白い"解説"になっていて(自作なんだから当たり前だろ感もあるかもしれませんが、映画のレビューも楽曲のアナライズみたいな物で、作った本人より分析した人間の言葉の方が面白い事が圧倒的に多い気がします)、読むのが結構楽しみだったりする。

 とあるインタビューの中で、園子温は『ヒミズ』についてテーマとして「希望に負けた」という言葉を提示していた。絶望に希望が打ち勝つのではなく、むしろ絶望が希望に負けてしまう。これは一体どういう事か。映画の中で「言葉」がどういった扱われ方をしているかに注目すれば自ずと解る。

 3.11の震災以降、僕は特に詩の分野に於ける震災に対する言説に苛立を感じていた。名の知れた詩人達が被災地や被災者、遂には津波や地震そのものに対して、行分けした自由詩を読み上げて何か勝手に敬虔な気持ちになっていたり呪術者のような素振りを見せていて、「詩の力」みたいな物を乱暴に信仰して悦に入っているのが気に食わなかった(和合亮一の詩を始め例外の物も無論幾つもある)。とある現代詩のイベントに於いて壇上で震災に対する詩を朗読する諸氏を見て、詩を書く人間の端くれとして僕は強く反感を覚えた。

 園子温は最初から映像作家だった訳ではなく、芸術家としての出発は詩の分野からだった。元々詩人である園子温の映画作品を見ていると、それ故かヨーロッパの古い詩や日本の戦後詩が劇中に登場したり、そうじゃなくても台詞を聴いているだけで「言葉」というものに強く意識的なのが解る。
 『ヒミズ』は大雨の中、茶沢によるヴィヨンの詩の朗読から始まる。この詩は劇中登場人物によって繰り返し暗唱されるのだが、ではこの詩が『ヒミズ』という映画に於いてめちゃくちゃ重要な物かと言うと、そうではないと思われる。重要なのは主人公二人が所属しているクラスの担任(凡庸で感動しいで暑苦しい男)から発せられる次のような言葉だ。

 「夢を持て!皆、この世でたった一つの花なんだ!」

 例え詩を書いたり読んだりしている人でなくとも、思わず吹いてしまうような、汎用的で底が浅いステキな台詞。所謂"ポエム"と揶揄されるような言葉。この言葉を聴いた住田は「普通最高!」と強く反発し、茶沢もその教師の台詞を馬鹿にするように物まねするシーンがある。要するに映画の中でも"ポエム"的なサムい言葉な訳だ。
 しかしラストシーン、住田が茶沢と共に警察署へ出頭に向かう所で、茶沢が住田に向かってその台詞を叫ぶのだ。

 「住田がんばれ、夢を持て、たった一つの花だよ!」

 これは一体全体どういう事か。どうしてこのシーンで、"ポエム"扱いされていた言葉が
叫ばれるのか。どうして詩人・園子温はこの言葉をラストシーンに召還させたのか?

 東北大震災が起こり、園子温は映画『ヒミズ』の脚本を大幅に書き換えたという。曰く、今映画を撮るならば震災後の世界を描かなければいけないと。当初原作通りに映像化される予定だったが、それも大きく変更された。一番特徴的なのはラストシーンだろう。原作である古谷実『ヒミズ』の最後は、住田が自殺してしまう所で物語が終わる。映画では先述した通り自殺は行なわれず、警察へ出頭し人生を立て直そうとする希望に溢れたシーンで物語が終わる。

 震災直後の日本に於いて、住田という一人の少年が耐えられない絶望の中でふと現れた希望に救われる事も無く自殺してしまう物語。恐らく園子温はそんな物語は絶対に描きたくないと思ったのだろう。映画の中で最終的に自殺を免れる住田は、茶沢という希望に救われたというより、そのあまりにも強い希望、求めざるを得ない希望に「根負け」したように見える。
 そして希望に根負けして生き続ける事を決意した住田に、あのポエムめいた台詞が、希望そのものである茶沢の口から叫ばれる。住田もその言葉に激励され自分でも「がんばれ!」と叫びながら走って行く。最終的に主人公達に与えられた言葉は、ヴィヨンの詩ではなくあのポエムだった。ここで僕は、先述した3.11以降の詩人達の態度への苛立ちを思い出した。そうだ、そうだよと思った。限界的状況で巧みな修辞や比喩を用いた文学的な詩なんか役に立たない。物凄くプリミティブで汎用的でひたすら希望に満ち溢れた、「がんばれ」であるとか「人間はたった一つの花だ」という言葉しか発する事が出来ない。詩は負けざるを得ないし、それを認めるほか無い。
 これが園子温の言う「希望に負けた」という事なのだと僕は思う。

 映画『ヒミズ』のラストシーンはカッコ悪い。「がんばれ!がんばれ!」と叫びながら、顔をグシャグシャにさせて警察署へ向けて走って行く。フェリーニの『8 1/2』のように美しい名台詞で飾られる事も無い。全てがむき出しのまま希望へと駆けてゆく。そのカッコ悪さは「負けた」カッコ悪さだ。決して希望が絶望に「打ち勝った」カッコ良さでは無い。

 原作のファンはこのラストシーンに白けるかもしれないし、もしかしたら最後の最後で「がんばれ!」なんて叫ばれて興ざめする人もいるかもしれない。
 僕はこれでいいと思ったし、いやこうするしかないと思ったし、よくぞここまで「負けて」くれたと思った。つまらない詩を作って恍惚としていた詩人達よ、全員これを見て反省しろと思った。

 『ヒミズ』を見て園子温が、今まで映画監督としても好きだったけれども、「尊敬する詩人」の一人となったのは言うまでもない。



2012年8月18日土曜日

山下敦弘『松ヶ根乱射事件』


 面白かった。劇中、事はいろいろと起こるのだがほとんどの事が大きな展開には結びつかない。むしろその開かない蕾の群生が非常にジメジメしていて鬱屈していて、それが映像としての「地方集落の閉鎖的な生々しさ」を支えている。
 とにかく生々しい。誰も演技しているように見えない。是枝裕和『歩いても 歩いても』なんかも誰も演技しているように見えない映画だったけれども、『松ヶ根乱射事件』のそれは「ありのままの自然さ」ではなく「エグいほどの生々しさ」を感じさせる。血の匂い(血液であり血縁であり)、汗の匂い、精液の匂いが画面から滲み出てくる。

 タイトルは『松ヶ根乱射事件』だけれど、この作品で起こる主な事件は轢き逃げと、謎の金塊と生首の発見のみ。では乱射はどこにあるかと言えば、ラストシーンで警官である主人公が拳銃をそこらに発砲しまくる所にしかない(しかも恐らくは大して物も壊れてないし人が死んだりもしていないと思われる)。
 だけれどこの映画の主題はその乱射にある。あらゆる鬱屈に耐えきれなくなり遂には集落の水道に殺鼠剤を混ぜるテロまで企てるがそれも頓挫し、虚空に向かって拳銃を乱射して寂しいカタルシスを得る主人公。その「何もかもをブチ壊したい衝動と耐えきれない鬱屈」がこの映画の主題だと思うし、だからこそこの映画は『松ヶ根乱射事件』なのだと思う。

 山下敦弘作品は初めて見たけど、その魅力が解った気がするな。『マイ・バック・ページ』や『苦役列車』も見たい!

demioさんの『苦役列車』評
http://d.hatena.ne.jp/ganko_na_yogore/20120723/1343050822


アイドルの話(ももクロの思い出話)



 先日友人に誘って頂き、初めてスマイレージのライブを見に行きました。日テレで『汐博』という祭りが開かれていて、その中に設えられた「汐留AX」というイミフな(でも凄く良かった)ライブ会場でのライブでした。一時間のミニライブ。
 ハッキリ言って最高でした。ライブも超楽しかったし、フロアの盛り上がりもめちゃくちゃアツいのに見やすいというナイスな現場で(後で聴くとこの日は迷惑ヲタがいなくて素晴らしい状況だったらしい)、これは是非また来たいと強く思いました。僕はアイドルでも「ライブ感」が好きで、お台場でベリーズ工房を見た時のお膳立てされてる感じが個人的に好みでなかっただけに、スマイレージのライブは凄く刺さりました。

 スマイレージと言うとメンバーの派手な入脱退がトピックとして語られる事が多いですよね。初期メンバーは今もう二人しかいなくて、新メンバーが四人入って現在六人グループになってます。
 ここで話が飛ぶんですけど、ももクロから早見あかりが脱退した時の事を改めて思い出したんですよね。あれはグループのアイデンティティが揺さぶられるくらいの大事件だったと思うんですけど、あかりん脱退直後から休む暇無く六日間連続のトーク&ライブイベント(僕は有野さんの回と吉田豪さんの回に行きました。去年の夏ですが、あの頃はまだ当日券とかも出てた!)が行なわれた事が、やっぱり今のももクロを形作る上でかなり良い働きをしたのだなと思います。
 早見あかりはももクロの中でもラップ担当だったりライブでのMCをうまく回せたり、かなり重要なポストにいたんですよね。メンバーの精神的支柱にもなっていたかもしれない。そんなメンバーがグループから脱退したら、残されたメンバーに多大なる「喪失感」が打ち込まれるのは自明です。
 それは避けられない事なのですが、六日間連続のイベントはその喪失感を別種の物に変えたと思うんですね。休む間もなく(=喪失感に打ちのめされる間も無く)トークイベントとライブをさせる事によって、「重要なメンバーがいなくなってしまった、これからどうしたら良いのだろう」という観念的で不安の塊である喪失感ではなく、「彼女がいなくなって、これが出来ないから補填しなければいけない、これが出来るから伸ばしていかなければならない」という"実際問題としての喪失感"をメンバーに与えられたと思うんです。これはメンバーに自発的に戦う力を付けさせたとも言えるし、今のももクロの強みの礎になったと思います。

 初日は東京キネマ倶楽部の二列目で見れたので、異常な近さでライブ見れて楽しかったな・・・思えばあの夏から異常なスピードで人気が上がって行ったな・・・

2012年8月16日木曜日

ナイトイン新宿



 昨晩はエアプレーンレーベルA&Rの阿部さんとAFTOの福岡さんと新宿の健心流に行きまして、美味しい日本料理と共にたくさんお酒を頂きました。3時間の飲み放題ではしゃいだ後はゴールデン街のバーソワレに赴きまして、ウィスキーなんかを頂いて楽しくお話しして帰路につきました。突き出しのぶっかけうどんがとても美味しかったです。久々に酔っぱらって楽しかったですね。

午後ワールドと好きな映画



 この所早朝〜昼の仕事をやっているので午後に自由な時間が出来ています。作曲だの何だのをやるのもそうですが、ついついその時間で借りて来た映画を見てしまったりしています。僕が住んでる板橋にはレンタルショップが二つもあるし(TSUTAYAとゲオ)、埼京線に乗れば渋谷や新宿のバカでかいTSUTAYAにすぐに行けます。特に新宿のTSUTAYAにはかなりマニアックなバイヤー?がいるらしく、置いてある作品の中で僕が一番驚いたのは、『徹子の部屋』の寺山修司ゲストの回のVHSです。あまりに腰が抜けすぎてまだレンタル出来ていません。そんな凄まじいTSUTAYAが(ゲオに対抗したのか)旧作全てレンタル100円になってしまったのですから、金が無い僕が「そりゃたまらん」と映画を借りまくってしまうのも仕方が無いですね。

 ここ二週間くらいで借りて見た映画は大体こんな感じ。

鈴木清順『夢二』
ルシール・アザリロヴィック『エコール』
リー・アンクリッチ『トイ・ストーリー3』
ジャン・リュック・ゴダール『アルファヴィル』
ウェス・アンダーソン『ファンタスティック Mr.FOX』
ウディ・アレン『カイロの紫のバラ』
園子温『紀子の食卓』
アンドレイ・タルコフスキー『惑星ソラリス』
アレクサンドル・ソクーロフ『太陽』
デヴィッド・フィンチャー『ファイトクラブ』

 なんと言うか名作ばかりですね。エコールはちょっと期待はずれ、夢二は鈴木清順の大正三部作で一番疲れる感じでした。トイ・ストーリー3は三回くらい見て全部ボロ泣きして(笑)、ファンタスティックMr.FOXは「これが映画だ!」って興奮して、終戦記念日に偶然見た太陽の深い物悲しさに感動し...と縷々述べて行くとタルいので割愛します。素晴らしい作品ばかりでした!

 渋谷TSUTAYAに返すDVDが三本あるのですが、今日また板橋TSUTAYAに行って四本ほど借りて来てしまいました。

 アルフレッド・ヒッチコック『めまい』
 フランソワ・トリュフォー『華氏451』
 小津安二郎『東京物語』
 山下敦弘『松ヶ根乱射事件』

 また名作誉れ高い作品ばかりですね。僕が本格的に映画を漁り始めたのもここ数年の事ですし、見てない作品は山ほどあります。とりあえず近所で借りられる名作は全て借りてしまおう(何年かかるのか解らないですが)と思います。


追伸:
【パソコンにメモしてあった「好きな映画」一覧】

フェデリコ・フェリーニ『8 1/2』『ローマ』『オーケストラ・リハーサル』
アンドレイ・タルコフスキー『惑星ソラリス』
フランソワ・トリュフォー『大人は判ってくれない』『アメリカの夜』
ロマン・ポランスキー『ゴーストライター』
デヴィット・リンチ『ロストハイウェイ』
アレクサンドル・ソクーロフ『太陽』
スタンリー・キューブリック『2001年宇宙の旅』『時計仕掛けのオレンジ』『シャイニング』
ジャン・リュック・ゴダール『気狂いピエロ』『アルファヴィル』
ルイス・ブニュエル『ブルジョワジーの密かな愉しみ』
ウェス・アンダーソン『ファンタスティック Mr.FOX』
ゲオルギー・ダネリヤ『不思議惑星キン・ザ・ザ』
ウォシャウスキー兄弟『マトリックス』
デヴィット・フィンチャー『ファイトクラブ』
リー・アンクリッチ『トイ・ストーリー3』
ディズニー『ドナルドのさんすうマジック』
鈴木清順『ツィゴイネルワイゼン』『殺しの烙印』
吉田喜重『エロス+虐殺』
寺山修司『田園に死す』
園子温『ヒミズ』『冷たい熱帯魚』『紀子の食卓』
北野武『ソナチネ』『アウトレイジ』
伊丹十三『タンポポ』
是枝裕和『誰も知らない』『歩いても歩いても』『空気人形』
黒沢清『回路』『叫』
松本人志『大日本人』