2013年10月6日日曜日

撹乱と爆笑とグイドの夢? 園子温『地獄でなぜ悪い』


 現在上映中の作品ですが【ネタバレ】を気にせず感想を書き散らかします。途中で文体が変わるのは性格の問題です。


 "映画を撮影中の映画"が好きだ。映画の撮影が主題になっている映画。僕が見れている作品数は申し訳ない程に少ないが、どれも好きで仕方が無い。フェリーニ『8 1/2』、トリュフォー『アメリカの夜』、是枝裕和『ワンダフルライフ』、そして記憶に新しい、以前ここで激賞した吉田大八『桐島、部活やめるってよ』もそうだった。北野武『監督・ばんざい!』だって、そのジャンルに位置するというだけで好きと言いたくなる。
 なぜ"映画を撮影中の映画"が好きかを考えてみると、メイキングという行為自体の美しさと、作家の映画への愛情がリアルに垣間見えるからが恐らく最たる理由であり、そして特に近年の作品には於いては"映画を撮影している中で映画を撮影している"という入れ子構造に直面するために必然的に"映画"乃至は"撮影"についてのメタな視線が導入され、そのメタ性を作家がどう作品の中で扱うか、が見れるからだと思う。

 『地獄でなぜ悪い』も映画の撮影を主題にした映画だった。簡単にストーリーを書く。
 一人娘を将来女優にするために育てていたヤクザの組長とその妻だったが、幼少期の娘が単独でCM出演の機会を得ている時にとある陰惨な事件のため妻が投獄、そのため娘は女優業の道を断たれる。その後十年程経って、娘が順調に女優の職を営んでいると思っている(というか思わされている)十日後に出所する妻のために、夫である組長が、娘が主演の映画を自身でデッチ上げようとする。そこに無関係な善良な青年や、十代の頃から映画の事しか考えていないが全く成功する兆しの無いちょっと頭がアレな男とその仲間達が巻き込まれ、組長はなんと現在抗争している組への殴り込みを撮影して映画に仕立て上げようと提案する。


 
 
 感想文に入ります。見てない人にはなんの事やらの文章です。
 映画が終わりエンドロールに入った瞬間、池袋ヒューマックスシネマズの椅子に埋もれたままガッツポーズをしました。最ッ高に面白かった!もう、めちゃくちゃです。めちゃくちゃに面白いし、物語自体もめちゃくちゃです。味の濃い、しかも別種の味の映像が大量に連結されていて、筋はしっかり通っていながらも目紛しいほどです。

 この映画の好きな点を大雑把に三つ挙げると、一つ目はジャンル映画のコラージュである事、二つ目はカメラの介在による、"しかもフィクション内での"フィクションとノンフィクションの撹乱がある事、三つ目はとにかく面白くてめちゃくちゃ笑った事です。三つ目については見て頂くほか無いので、一つ目と二つ目についてなんとか書けたらと思います。(正直めちゃくちゃ笑った事がこの作品の最も褒めたい点なのですが 笑)

 一つ目、この映画がジャンル映画のコラージュである事です。先ず一番大きい枠として
、この映画はコメディ映画であり、そして同時にヤクザ映画です(タイトルバックと共に『仁義無き闘い』のテーマが流れる事からもそう思って良いと思います)。その次に大きい枠として、"映画を撮影中の映画"です。そしてこの枠の中乃至ははみ出た所に、アクション映画(佐々木のブルース・リーぶり、ファックボンバーズの喧嘩のジャッキー・チェンぽさ、日本刀による殺陣)、少年青春映画(ファックボンバーズの少年時代)、青年/中年青春映画(ファックボンバーズとヤクザの映画撮影)、映画館/映画愛映画(ファックボンバーズと映画技師。『ニュー・シネマ・パラダイス』みたいな。見てないけど)、トラブル巻き込まれ系映画(ミツコに連れ去られる公次)、逃避行ロードムービー/ラブストーリー(ミツコと公次)、クサいメロドラマ(平田と一夜限りの女)、B級スプラッター映画(ヤクザの抗争、殴り込み)、と枚挙に暇がありません。これは僕が勝手に細部をこじつけてる訳ではなく、鑑賞していてハッキリ、シーンごとでジャンルを感じます。
 これには、冒頭に書いた僕が"映画を撮影中の映画"を好きな理由として挙げた、"作家の映画への愛情"を感じます。こんな映画も好き、あんな映画も好きという想いが大雑把な"ジャンル"の編み目に濾されて、破綻しないギリギリのところでめちゃくちゃに詰め込まれているように感じました。これが大変心地良い。目紛しい程に色々なジャンルを見せつけられ、段々感覚が麻痺してきて自分が何を観ているのか解らなくなり、次第に色々な映画と一体化したような陶酔感すら味わいそうになります。

 二つ目は、カメラの介在という問題。これは前に僕が書いた山下敦弘『マイ・バック・ページ』の項、の文中にリンクしてるdemioさんの記事が、ちょっと進んだ物ですが資料になると思います(丸投げ)。
 カメラという物は力を持っています。このカメラという語は演出や撮影者という語に置き換えても構いません。どういう力かと言えば、無限に広がっている筈のこの世界の風景を狭小な四角い空間に切り取ってしまう力。そして、その切り取った風景を"映像作品化"してしまう力です。(demioさんはそこから遡行的に寧ろ現実感が生じてしまう事を指摘していますがここでは一体置いておいて)この映画では、このカメラの力、"映像作品化"してしまう力≒フィクション化してしまう力が一先ず注目されています。園子温はそのメタ性を活用しますが、しかし一筋縄ではいかないのが、"カメラが介在する事により全ては虚構化する"という初歩的な点のみを強調したわけではないという事です。
 映画の映像を我々は"現実世界でのフィクション"と知りながら、映画の中で起こった事は"映画の世界の中でのノンフィクション"と捉えます。
 (映画の中で現実に現れた)瀕死の重体を負ったヤクザが町を歩き、それをファックボンバーズのカメラが追う事で途端にそれは映画(フィクション)になってしまう。(映画の中で半ば用意された)目を見張るようなアクションシーンや甘くクサいドラマティックなラブシーンがあってもカメラが入らない事によりそれは映画にならない(ノンンフィクション)。そして最後の殴り込みのシーン。現実の殴り込みをカメラで撮っているからフィクション化してしまう、という単純な事ではなく、平田の監督/演出によって殺し合いそのものが半ば用意された演劇と化し、しかし実際に戦いが起こり人が大量に死に、そしてそれをカメラが撮り続けている。こういった事が、トートロジーになりますが"そもそも映画である映画"(=フィクションであるフィクション)の中でごちゃごちゃになっています。映画の中で一体何が映画で何が映画じゃないのか混乱してしまいます。カメラの介在の抜き差しだけで大いに撹乱されているようです。35mmを担ぐファックボンバーズのカメラマン二人が機関銃を手にして敵味方関係無く銃殺していくシーンも、カメラが持つ力を象徴しています。

 そして結末が面白かった。血みどろの抗争から、フィルムと録音テープだけを持ち去った重傷の平田が歓喜しながら夜の路上を疾駆し、そして唐突に「カット!」の声が響きます。その声は登場人物の誰の声でもない、『地獄でなぜ悪い』という映画の撮影者によるラストシーンの「カット!」なんです。平田は俳優・長谷川博己に戻りフレームの外に倒れ込み、物陰に隠れていた撮影スタッフの影がちらほらと現れ(カメラの前を横切る者も!)、そして映画はエンドロールに入ります。これが最後の大打撃。
 繰り返しになりますが、映画というものは、我々の現実とは切り離されているところのノンフィクションとして一先ず受け止めるのが普通の見方だと僕は思っています。しかしこの映画は、フィクション/ノンフィクションがその映画の中で撹乱され、そして最後の「カット!」により、その撹乱を内包していた、我々が推移を見守っていたこの映画自体が"カメラにより撮影されたフィクション"だという事が強烈に提示されます。これまで観客が感じていた撹乱、混乱、感情移入を一笑に付すような打撃です。
 しかし、「カット!」後の映像を本物のノンフィクションと単純に見なすわけにはいきません。エンドロールはこれからです。映画は未だ終わっていないのですから。

 この"カメラの介在によるフィクション/ノンフィクション"の問題、メタ性は、初歩的な事ではあります。しかし、この映画の圧倒的なテンションの中で繰り広げられる怒濤のフィクション/ノンフィクションの撹乱にはカタルシスすら覚える感があります。主眼が問題提起する事ではなくて、むしろ"遊び"として撹乱してしまう事。そしてそれが(無論要因はそれだけではないけれど!)130分間劇場を笑いの渦に叩き込むようなエンターテイメント性に直結している事。それこそがこの『地獄でなぜ悪い』という映画の魅力なのではないかと僕は思いました。なんとか三つ目の理由に漕ぎ着ける事が出来ました。


 最後に、平田が疾駆しながら空想するシーンについて。平田は回収したフィルムと音声で名作映画を作り上げ、馴染みの劇場でそれを上映し大変な大入りになる様を頭に描きます。ここで面白いのが、抗争で死んだ人間までもがその場におり、共に観客のスタンディングオベーションに囲まれるのです。自分の夢想/希望が完遂し、愛したスタッフ、登場人物が全て列席する。この空想が、『8 1/2』で主人公グイドが死後に見る夢想にとても似ていると言うのは、過ぎた事でしょうか。園子温のインタビューによれば、平田には若い頃の"映画に燃えていた"自分を重ねたという言葉があります。
 主人公に自分を重ね、そして映画への想いを詰め込んだ映画。この『地獄でなぜ悪い』という作品を、園子温流の『8 1/2』と捉えるのも、大げさでダサい解釈かもしれませんが、面白いのかもしれません。




追記1:
 『地獄でなぜ悪い』というストレンジ且つ力強く開き直っているタイトルについて。この映画に於ける"地獄"は、僕は単純に抗争を始めとした血みどろのシーンだと取って良いかなと思っています。地獄と呼べる程にエグいシーンばかりなのに、それが爆笑を誘ってしまう。地獄の映像で笑わせてなぜ悪い、と言われているように感じます。
 思えば園子温映画はどれもこれも地獄ばかりでした。紀子の食卓も、愛のむきだしも、冷たい熱帯魚もヒミズも別種のものではありながら地獄ばかりでした。しかし、そのそれぞれの地獄から立ち上がるそれぞれの感動がありました。地獄で恐がらせてなぜ悪い、地獄で泣かせてなぜ悪い、地獄で感激させてなぜ悪い、そして、地獄で笑わせてなぜ悪い。
 こう考えるとまた『8 1/2』的なタイトル感を覚えてしまうのですが...(笑)


追記2:
 書きませんでしたが俳優陣のコメディアンぷりもクッソ最高でした。堤真一のヲタっぷり(あれは昨今のアイドルブームに園子温がしっかり目配せがある事を示していると思います。堤真一の素振りは完全に80年代のアイドルファンでしたが 笑)や、星野源がゲロをスプラッシュさせながら平田の願いの札を発見する所とか思わず手を立たいて笑いそうになりました。
この映画の中で一つだけ目立った悪い点を挙げれば、ヤクザが撮影機材を事務所に搬入しているシーンでの、二階堂ふみ演ずるミツコが暇でカチンコで遊ぶシーン。あれはダメ、あれは超可愛すぎる。一気にふみ様映画になりかねない。あれはオフショットにしろ!!!




以上です。



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前回の記事から半年以上ぶりの更新となりました。仕事を増やしてから全然映画を観る時間を失ってしまいました(以前は各地の名画座に足を運んでいたりしたのに!)今月はなんと、園子温、是枝裕和、松本人志の新作が同時にロードショーになっているので、これを機にまた映画漬けの日々を再開出来たらなと思います。

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