2013年3月19日火曜日

最近見た映画(もうすこし体系的に...)

ポール・トーマス・アンダーソン『マグノリア』
地元板橋のTSUTAYAでレンタルしたら盤面が焼けていて視聴出来ず、池袋ロサTSUTAYAに行ったらレンタル中で(地元もロサも一本しか無い!)、まあ新宿や渋谷に脚を伸ばせば良かったのですが近くにあるのにレンタル出来ない状況がなんだか悔して、待ってたらロサで手に入れられたのでやっと見る事が出来ました。
 三時間を超える長めの作品ですが面白かったです!冒頭で提示される「不思議な偶然」の事例に比べると本編に登場する登場人物達の「微妙な繋がり」は非力に思えるのですがその深みは比では無いです。強烈な影響は互いに与えないながらも、付かず離れずの関係が決してドラマティック過ぎない、然るが故にリアルな劇性を持つ人生の不思議さを俯瞰させてくれます。その長時間の微妙な人物同士の関係が描かれる中、最後の「蛙の雨」という異常事態が登場人物皆に等しく降り注ぎます。
 この異常なシーンの、異様な感動と異様な説得力は凄いです。人生何があるのか解らない、何処で誰と不意に繋がっているのかも解らない、例え今実際に起こっている偶然にも自分は気付いていないのかもしれない。それが「蛙の雨」によって額装されて美しく展示されたような想いです。これがただの雨だったらつまらなかったと思います。人と人との繋がりも異様な偶然。蛙が降るのも異様な偶然。全ては異様な偶然。そう思わせてくれる感動的なシーンでした。

 ボンネットに打ち付けられて潰れて死んで行く蛙達の様はグロいけどネ!




想田和弘『選挙』
川崎市の市議選に立候補した山内和彦の行く末を撮影したドキュメンタリーです。想田監督はこのドキュメンタリーを撮影するにあたって、そこに独自のメッセージや批評性などは介在させずに、ただ撮る、「観察映画」を製作しようとしたそうです。
 市議選候補者の日々の奮闘、苦悩等の実情を開票の日まで見守って行けるのは大変に楽しかったです。特に映画終盤で小泉純一郎が演説の応援に駆け付けるシーンの盛り上がりは凄いです。一気にこの映像の説得力と重厚さが立ち現れます。
 「観察映画」という表現の可能性については疑問の余地はたくさんあると思います。その方法自体への懐疑は僕はここではしようと思いませんが、それでも気になったシーンはあります。先ずカメラ越しに候補者山内和彦に質問するシーンが一回だけあります。それと、地元の子供を映して彼らがカメラにアピールをするシーンがあります。これらは頂けないのではないでしょうか。そういったシーンが挿入される度に、そこにいてその風景を撮影している「観察者」の姿が否応無しに浮き上がります。映画を観ているこちらがまるで神の眼を持ったように事の推移を見守っている(無論そんな事は有り得ないですが。)事から一気に醒めて、この映画を撮影し編集した人間の存在を強く再認識させられます。するとその瞬間から、では監督は何を想ってこの候補者を追っているのか、現状の選挙制度や候補者の実情について何を考えているのか、どうしてこの候補者を追っているのか、どうしてこのシーンを撮影したのか、どうしてここでカットが変わるのか、とどんどん気になってしまい、要するにそこで客観的な「観察」の不可能性を"わざわざ"思い知らされてしまうんです。その不可能性はドキュメンタリー作品への懐疑なんかよりももっと直接的で、今自分が対峙している『選挙』という作品自体への懐疑にストレートに繋がってしまい、鑑賞が若干ダルくなってしまいます。
 山内さんの奥さんの存在がスリリングで良かったです。「候補者の妻」を追ったドキュメンタリーが観てみたい!




入江悠『SR サイタマノラッパー』
面白すぎて見終わって直ぐさまTSUTAYAに行ってシリーズの第二作目を借りて来て見てしまいました。
 冴えない男の青春敗退物語がユーモアたっぷりに洗練された映像で描かれているのが面白いのはそもそもとして、僕が一番この映画を見て「スカッとした」のは、HIPHOPという音楽の、日本への定着の困難さがこれでもかというくらい描かれている店でした。HIPHOPをやるためにはギャングにならなければいけない。HIPHOPをやるためにはオーバーサイズの服を来て派手なゴールドやシルバーをつけなければいけない。HIPHOPをやるためには歌ではなくラップをしなければいけない。HIPHOPをやるためには反社会的乃至は社会を批判するリリックを書かなければいけない。ただただHIPHOPという音楽が好きで自分もそれをやりたいと思ったとき、これほどの障壁を乗り越えなければいけない。主人公は映画の中でヤンキーに絡まれ、服装を馬鹿にされ、ラップを馬鹿にされ、不用意に書いた反社会的なリリックについて大勢の大人に詰問され、徹底的に「善良な日本人がHIPHOPを始める事」の困難さを突きつけられます。
 この映画が良かったのはその「困難さ」がそのまま日本に於けるHIPHOPの問題として提出されているわけではなく、主人公一個人の人生の困難さとして描かれている所です。そのまま問題として提出いたらちょっとどうしようもないと言うか、「じゃあどうしろっていうんだよ」という感想を抱いてしまったかもしれません。問題が主人公個人の問題として描かれているから、「困難だが、その困難を受け入れつつも行なっていくしかない」という力強い希望が現出します。

 友人にも「やっとSR見たのか。今まで見てなかった事後悔したでしょ」と言われましたが、もう力強く頷く他ありませんでした!




入江悠『SR サイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム』
二作目は舞台を群馬に移し、地元の女性ラッパーチームの再起動が中心に物語が展開します。今作は一作目であったようなHIPHOPの問題についてコンセプチュアルに描く事はなく、ただチームの再起動と人生の諸問題に揉まれてその再起動が残酷に失敗していく様が描かれる。これも本当に面白くそして物悲しいのですが、これを見ると一作目にあった「日本人がHIPHOPを始める事」という問題が実は本当にただただ主人公独自の困難としてしか想定されていなかったのではないか、と思わされます。もしそうだとしたら、ミクロの問題を描いていたら知らぬ間にマクロの問題を提起していたという事ですね。
 群馬から地元埼玉に戻ろうとするSHO-GUNの二人に向かって、主人公アユムが「二度と群馬に来んなよ」と笑いながら言うラストシーンはあまりに胸が苦しくなりました。SHO-GUNの二人が来なければチームの再起動なんか考えなかったし、それによる人生の残酷さと孤独に直面させられる事もなかった。しかしそれによって、冷めない青春の美しさや人々との繋がりの美しさを強烈に再認識させられる事も又なかった。本当に「泣き笑い」のラストです。
 
 安藤サクラさんのラップ超カッコいいですね。あとアユム役の山田真歩さんの身体が冒頭からなんとなく生々しく映されてて、そもそもの「女性性」というトピックを最初にちゃんと植え付けられるのも良かったです。




山下敦弘『苦役列車』
文芸坐で見ました。
 この映画は上映時間が113分あるのですが、その中で1秒たりとも主演の森山未來が森山未來に見えませんでした。ずーっと見知らぬ下衆で下品でどうしようもない若いんだが老けてんだか解らない謎の小人物に見えます。それくらい役作りと演出が凄い。
 飯食いっぱなし、酒飲みっぱなし、煙草吸いっぱなし。そして汗を出し吐瀉物を出し精液を出し尿を出し糞便を出し涙を出しの113分間です。山下作品の魅力について僕は「生々しさ」というワードを頻出させますが、この作品は見ているこちらが嘔気を催すような「生々しさ」、もっと言えば「生臭さ」が前面を覆っています。というかもうそれだけで出来ているような映画です。そういう意味に於いては集大成なのかもしれません。

 ふと考え込んでしまったのですが、観客を映画から逃げさせない作品はどうしてその力を持つ事が出来るのでしょうか。『苦役列車』と園子温『冷たい熱帯魚』を"対比"させて考えてみたのですが(前者は現実の力を巧みに利用し、後者は虚構の力をふんだんに利用しているのではないか...?)、未だちょっとその回答は得られそうにありませんでした。




園子温『希望の国』
見終わって、どう受け取っていいか迷う作品でした。しかし立ち返れば、この作品は「長島県」という実在しない場所を中心に描いた映画で、そこで重要なのはこの「長島県」そしてこの県で起こる原発事故は、実際に原発事故のあった「福島県」をフィクション化したものではなく、福島の事故の後に「また」原発事故が起こった県として描かれているという店が重要なのではないかと思いました。
 長島県の原発事故は実際の福島の事故と地続きになっている。だからフェイクドキュメンタリーにこの作品は近似しています。そしてそこには、「また同じ事が起こる」という、日本政府乃至は東京電力に向けた"強烈な皮肉"としての予言が立ち現れています。曰く、また地震は起こるだろう。その頃にも地方沿岸部の原発は無くなっておらず、また津波でやられるだろう。原発が爆発するだろう。国はあらゆる情報を隠すだろう。人々は残酷に傷つき、狂い、そして安全に住める地域がこの国からまた減って行くだろう。...
 この忌まわしき予言のためだけにこの映画は存在していて、人々の物語が描かされいたように、僕は感じました。だから本編の展開を細かく追っていく事に若干の徒労を感じたのはそのせいかもしれません。
 先ほどの『苦役列車』の感想の最後で考えた事がここで不意に思い出されました。福島の後の「長島」を予言する。この予言の力は、虚構の力を持ってしてでないと「皮肉/批判」として機能しなかったでしょう。言うまでもなく、舞台を静岡県や茨城県にした途端にその予言はただの悪夢的な予告にしかなりません。

 しかし『希望の国』というタイトルだけは僕はちょっと解せません。少なくともこの映画では「希望」は描かれていない(少なくとも『ヒミズ』で描かれたような強烈な「希望」は)と思います。これは政府に抗い放射性物質に怖れる人々の悲劇であり、忌まわしき予言です。この物語に「希望」を冠する事の意味。この「希望」もまた皮肉なのでしょうか?もしそうだとしたら、あの『ヒミズ』に於ける素晴らしい「希望」を白けさせるような気がするし、そのままストレートに希望という意味だとしたら、なんだか映画にそぐわないし、『ヒミズ』という作品の"長大な蛇足"。という様相を呈してしまう気がします。どうなんでしょうか...




リュック・ベッソン『LEON』
僕の中で『ロスト・イン・トランスレーション』以来の、「素敵な映画かと思いきやおもしろ映画」でした。名作誉れ高いし、今更あんま多くを語る気になれないなんですが、これ、面白くないですか?レオンが強くなるために牛乳を飲みまくったり、12歳の女の子に殺しを教えて危険な存在になるのに扱いが杜撰なせいで大問題が起こったり、麻薬捜査官が完全なキチガイのヤク中だし、レオン一人を殺すためにロケットランチャーが用意されたり警官「全員」(!)が招集されたり、「おもしろ」の連続でした。ごめんなさい。終止口あけっぱなしのジャン・レノを見て、これは素晴らしいコメディ俳優だと思いました。




ジョン・カサヴェテス『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』

下高井戸シネマで見ました。
 凄く良かったです。マフィアにハメられて多額の借金を背負い、それを帳消しにするために殺しをさせられる主人公。その中で自分も深手を負い、死を直近に感じて行くのですが、それを主人公が経営するストリップ小屋の猥雑なショーと気怠い歌が彩っていく。酒と煙草に塗れた店内で、豊満なバストを周囲にはべらせて汚いメイクの男が愛の歌を唄う。まるで美しいとは思えないシーンなのですが、そのデカダンスに満ちたステージと、狂ってしまった人生に翻弄される主人公の対比がむしろ切なく、心の涙腺を決壊させます。カサヴェテスの映画って、ある特定のシーンで爆発的に感動するというよりは、鑑賞している内に鳩尾のあたりにジワジワと深い感動が溜まって来て、ラストシーン、そしてスタッフロールが流れ出す頃にそれがゆっくりと溢れ出るように涙してしまう感じが有ります。
 またこの映画では音楽の使い方も面白かったです。猥雑なショーの中での気怠い歌、前半の弛緩した時間をむしろ律するような刺激的な音楽、そして後半の緊迫した時間を彩色する事無く放り出すような無音。これらの対比がまた映画に深みを与えているように感じました。




 とにかく最近は日々やたらと映画を見ているのですが、どうにもデタラメに見まくっている感じがついに否めなくなってきました。もうちょっと体系的に捉えて行かないと色々取りこぼしてしまう気がします。気をつけたいですね。



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