2012年11月2日金曜日

風邪と邦画3本 ①熊切和嘉『海炭市叙景』


 風邪で自宅静養中です。今月1日に『希望の国』を見に行けなかった腹いせに邦画を3本借りてきました。

 熊切和嘉『海炭市叙景』
 是枝裕和『幻の光』
 阪本順治『どついたるねん』

 以上の3本です。今日は『海炭市叙景』を見ました。


 函館がモデルとなっている架空の都市"海炭市"に住む様々な人の日常を描いた作品です。その日常は、リストラされた貧しい兄妹や、家庭不和を抱える男や、立ち退きをせまられる一人暮らしの老婆など、決して幸せなものではありません。物語の構成としては、それぞれの日常はほとんどリンクしないままに並べられ、共に新年を迎える(中には他人のまま同じ山の上で初日の出を見ている者達もいる)という形です。
 映画はとしても静かで、特に前半の風景は息を呑むように美しいです。平面的でベタッとした夜景、色が同化しテクスチュアが際立つ曇り空の海と街。ジム・オルークの音楽も静かでちょっとひねくれており美しい象徴になっています。
 しかし登場人物達の抱える鬱屈が、その「何処にも行けない」ままの苦悩がかなり重たいです。扱われている問題としてはリストラやDVや独居老人など現代的でまま散見するテーマなのですが、それが物語の中で進展も後退もしないので、生々しさよりも固着した憂鬱の匂いが強くなっています。誰も海炭市から出られないままに、何も変わらない苦悩を過ごしていく。

 観ていて思い出したのは山下敦弘の『松ヶ根乱射事件』でした。あの映画も地方に於ける
閉鎖的な鬱屈を描いていました。ではその鬱屈を打ち破るような救い、もしくは更に鬱屈していく地獄の展開が『松ヶ根乱射事件』にあったかと言えば、無かったと思います。あの物語も結局は何も変わらないという虚無感がありました。

 だけどその虚無に対する登場人物の態度は全く違ったと思います。『松ヶ根乱射事件』は主人公は集落の水道に殺鼠剤を混入させるテロを企てたり、それが頓挫して遣る方ない怒りを銃弾に変えて何も無い場所(=虚無)に向けて乱射する。
 『海炭市叙景』では登場人物達はほぼ何もしていない。鬱屈を覆そうとする事も虚無を打ち破ろうとする事もしない。"映画がそうさせていない"ようにすらも感じます。時系列的には同じ時間を鬱々と過ごしたバラバラの登場人物達が、ほんの少しだけ邂逅して映画は終わる。

 ラストシーン近くの日の出(先述した通り、何人かの登場人物がここで他人のまま居合わせている)を、ある種の救い(鬱屈していた人々が、バラバラでいながらもそれぞれの新年を迎え、希望に向かって行く)と捉える傾向もあるみたいですが、あの日の出の直後に兄妹の兄である井川颯太(竹原ピストル)は遊歩道で帰る途中に滑落して亡くなってるんですよね。しかも「遺体が引っ掛かってて回収が困難なため、一度下へ落としてから回収する」なんていう無惨な状態になっているんです。

 その残酷な報を伝えているのが、海炭市で唯一の部外者であった浄水器業者の萩谷博(三浦誠己)が本州へ帰る為のフェリーの中にあった、テレビのニュース番組なんです。

 何を感じたかと言うと、全ての登場人物と接点は無いものの、この映画自体が萩谷博の地獄巡りに感じたんです。そして、実家がそこにありながらもそこを愛してはおらず、久しぶりに帰郷してもやはり良い事はなく地獄ばかりを目撃してきた萩谷が、東京へ帰る海の上で聴くのが井川颯太のニュースなんです。これは地獄巡りの総仕上げというか、地獄の門をくぐる時の恐怖の鐘の音のようではありませんか。これには登場人物の鬱屈に加えて、それを強制する映画の閉鎖的なサディズムを感じました。

 その後に、独居老人の、行方不明になっていた猫がふらっと帰ってくるラストシーンがあります。この猫が妊娠してるんです。老人はその腹を丹念に撫でながら(カメラも執拗にその手を映す)、生んで良い、全部育ててやると囁きます。地獄巡りが終わった後にこのシーンを観ると何か不安になるんですね。由来の解らない子供を孕んだ猫と、その出産と育成を助ける老婆。
 この子供が「新たなる諸問題」で、老婆がその問題達を育てる時間であり物語で、立ち退きを拒否する(=変わろうとしない)そのあばら家が海炭市そのものなのではないか。そういう物凄く後味の悪い象徴が読めてしまうと思うのですが、悪い意味で穿ち過ぎでしょうか。

 ちょっと疲れる映画でした。



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