2012年8月20日月曜日

限界的状況と詩 園子温『ヒミズ』


 先月だか先々月、居酒屋で食べたサーモン刺しが当たってエラい目に遭ったのだけど、その日は居酒屋に行く前に何をしていたかというと早稲田松竹で園子温『ヒミズ』を見ていた。劇場で公開された時に二回見に行っていたから、スクリーンで見るのはそれが三回目。

 映画監督の自作についてのインタビューを読む機会はあまり無いのだけど、殊園子温監督のインタビューはどのレビューよりも面白い"解説"になっていて(自作なんだから当たり前だろ感もあるかもしれませんが、映画のレビューも楽曲のアナライズみたいな物で、作った本人より分析した人間の言葉の方が面白い事が圧倒的に多い気がします)、読むのが結構楽しみだったりする。

 とあるインタビューの中で、園子温は『ヒミズ』についてテーマとして「希望に負けた」という言葉を提示していた。絶望に希望が打ち勝つのではなく、むしろ絶望が希望に負けてしまう。これは一体どういう事か。映画の中で「言葉」がどういった扱われ方をしているかに注目すれば自ずと解る。

 3.11の震災以降、僕は特に詩の分野に於ける震災に対する言説に苛立を感じていた。名の知れた詩人達が被災地や被災者、遂には津波や地震そのものに対して、行分けした自由詩を読み上げて何か勝手に敬虔な気持ちになっていたり呪術者のような素振りを見せていて、「詩の力」みたいな物を乱暴に信仰して悦に入っているのが気に食わなかった(和合亮一の詩を始め例外の物も無論幾つもある)。とある現代詩のイベントに於いて壇上で震災に対する詩を朗読する諸氏を見て、詩を書く人間の端くれとして僕は強く反感を覚えた。

 園子温は最初から映像作家だった訳ではなく、芸術家としての出発は詩の分野からだった。元々詩人である園子温の映画作品を見ていると、それ故かヨーロッパの古い詩や日本の戦後詩が劇中に登場したり、そうじゃなくても台詞を聴いているだけで「言葉」というものに強く意識的なのが解る。
 『ヒミズ』は大雨の中、茶沢によるヴィヨンの詩の朗読から始まる。この詩は劇中登場人物によって繰り返し暗唱されるのだが、ではこの詩が『ヒミズ』という映画に於いてめちゃくちゃ重要な物かと言うと、そうではないと思われる。重要なのは主人公二人が所属しているクラスの担任(凡庸で感動しいで暑苦しい男)から発せられる次のような言葉だ。

 「夢を持て!皆、この世でたった一つの花なんだ!」

 例え詩を書いたり読んだりしている人でなくとも、思わず吹いてしまうような、汎用的で底が浅いステキな台詞。所謂"ポエム"と揶揄されるような言葉。この言葉を聴いた住田は「普通最高!」と強く反発し、茶沢もその教師の台詞を馬鹿にするように物まねするシーンがある。要するに映画の中でも"ポエム"的なサムい言葉な訳だ。
 しかしラストシーン、住田が茶沢と共に警察署へ出頭に向かう所で、茶沢が住田に向かってその台詞を叫ぶのだ。

 「住田がんばれ、夢を持て、たった一つの花だよ!」

 これは一体全体どういう事か。どうしてこのシーンで、"ポエム"扱いされていた言葉が
叫ばれるのか。どうして詩人・園子温はこの言葉をラストシーンに召還させたのか?

 東北大震災が起こり、園子温は映画『ヒミズ』の脚本を大幅に書き換えたという。曰く、今映画を撮るならば震災後の世界を描かなければいけないと。当初原作通りに映像化される予定だったが、それも大きく変更された。一番特徴的なのはラストシーンだろう。原作である古谷実『ヒミズ』の最後は、住田が自殺してしまう所で物語が終わる。映画では先述した通り自殺は行なわれず、警察へ出頭し人生を立て直そうとする希望に溢れたシーンで物語が終わる。

 震災直後の日本に於いて、住田という一人の少年が耐えられない絶望の中でふと現れた希望に救われる事も無く自殺してしまう物語。恐らく園子温はそんな物語は絶対に描きたくないと思ったのだろう。映画の中で最終的に自殺を免れる住田は、茶沢という希望に救われたというより、そのあまりにも強い希望、求めざるを得ない希望に「根負け」したように見える。
 そして希望に根負けして生き続ける事を決意した住田に、あのポエムめいた台詞が、希望そのものである茶沢の口から叫ばれる。住田もその言葉に激励され自分でも「がんばれ!」と叫びながら走って行く。最終的に主人公達に与えられた言葉は、ヴィヨンの詩ではなくあのポエムだった。ここで僕は、先述した3.11以降の詩人達の態度への苛立ちを思い出した。そうだ、そうだよと思った。限界的状況で巧みな修辞や比喩を用いた文学的な詩なんか役に立たない。物凄くプリミティブで汎用的でひたすら希望に満ち溢れた、「がんばれ」であるとか「人間はたった一つの花だ」という言葉しか発する事が出来ない。詩は負けざるを得ないし、それを認めるほか無い。
 これが園子温の言う「希望に負けた」という事なのだと僕は思う。

 映画『ヒミズ』のラストシーンはカッコ悪い。「がんばれ!がんばれ!」と叫びながら、顔をグシャグシャにさせて警察署へ向けて走って行く。フェリーニの『8 1/2』のように美しい名台詞で飾られる事も無い。全てがむき出しのまま希望へと駆けてゆく。そのカッコ悪さは「負けた」カッコ悪さだ。決して希望が絶望に「打ち勝った」カッコ良さでは無い。

 原作のファンはこのラストシーンに白けるかもしれないし、もしかしたら最後の最後で「がんばれ!」なんて叫ばれて興ざめする人もいるかもしれない。
 僕はこれでいいと思ったし、いやこうするしかないと思ったし、よくぞここまで「負けて」くれたと思った。つまらない詩を作って恍惚としていた詩人達よ、全員これを見て反省しろと思った。

 『ヒミズ』を見て園子温が、今まで映画監督としても好きだったけれども、「尊敬する詩人」の一人となったのは言うまでもない。



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